2025-12-30

30.紙粘土の試作@美術部


古紙や、固まって使えなくなった絵の具、木工ボンドを有効利用するため、紙粘土を作ってみた。


シュレッダー古紙




出なくなった木工ボンド





固まった絵の具






シュレッダー古紙を水に浸し、濾す。




ボトルからこそげ取った木工ボンドを混ぜる。




水で溶いた絵の具を混ぜ、橙を作る。




数日乾燥させ固まったら、白色の絵の具を塗り、鏡餅完成。
台は色画用紙の端切れで作成。






鏡餅が完成した後、使っていなかったジュースミキサーが美術準備室にあるのを、美術の先生が発見。

古紙をミキサーにかけても、ザラザラ感やブツブツ感は多少残ってしまう。部員のアイデアを基に、その質感を活かした工作を試作し、年明けまで乾燥中。

クエン酸と重曹で紙が溶けやすくなるようなので、また試してみたい。



ーーー 追記 ーーー



美術室にあった1年前の開封済みの紙粘土と、美術準備室で美術の先生が発見した未開封だけれど乾燥してしまっている紙粘土に、水を足してジュースミキサーで混ぜるとクリーム状に。




水の量が多すぎたため捏ねることはできず、数週間乾燥させ、クリームの絞り口を使うと成形ができる状態になった。



31.粘土細工の試作@HOME



2025-12-29

29.美術部指導員

2004年から色鉛筆アート教室や展覧会をおこない、絵心がないという言葉を何度も耳にし、もしも子供の頃からそういう思い込みがあるのなら、その思い込みを抱く前に絵を描く楽しさを知ってもらいたいと思うようになり、そんな時に“学校ボランティア”の仕事があることを知った。

2023年に早速学校ボランティアに応募し、某学校から早速連絡があり、サポーターとして仕事をした2年後、ありがたことに色々幸運が重なって、2025年6月から美術部指導員の仕事に就くことができた。

そう簡単に、子供の興味や苦手を変えられるものではないけれど、私は社会人になってから絵を描くことに興味を持ち始めた。 今までなかった興味を突然抱くこともある。

色鉛筆だけじゃなく色んな画材や道具を使い、色々アート創作を試し、子ども達にもなんだか楽しそうと思ってもらえればと思う。 美術室には、過去に使っていたであろう画材や道具がいっぱいあり、ワクワクする。




<部活指導員応募のため提出した小論文> 

テーマ:『公立学校の部活動指導において、今求められていることならびに自分ができること』800文字程度


  
公立学校の部活動で今求められていること一つ目は、授業では得られない多様な体験を部活動で提供することによって、生徒の興味関心が広がり好奇心が高まり、「生徒一人ひとりが成長し、学校生活がより豊かになること」です。

部活動では、生徒自らが考え行動する機会が与えられることで自主性・主体性・行動力が養われ、また学年やクラスの垣根を越えたチーム活動を行なうことによってコミュニケーションの機会が増え、社会性・協調性・思いやりを育むことができます。 

加えて、一年間の活動内容を部長・副部長はじめ、部活動経験を持った高学年生徒が主体となって考えることで、責任感・計画性を涵養することができます。そして立てた計画を達成するために部員全員が協力し合い目標に向かって努力する過程で、喜びや困難を仲間と分かち合い、連帯感・自己肯定感を高めることができます。

生徒一人ひとりが、部活動を通しこれらの成長機会を得るためにも、専門知識のある指導員が部活動を支え指導に当たることが望ましく、また同時に、教員の労働時間や指導の負担を軽減する観点から、「専門知識を持った外部指導者を活用すること」が公立学校の部活動で求められている二つ目のことだと考えます。

 美術部の指導員として自分ができることは、アートの専門知識と様々な社会経験を活かして、上記の自主性・社会性・責任感・連帯感の育成に加え創造性・想像力を育てることです。

書き順のある文字ではなく色や形で自由に自己表現する美術には、絵の描き順や美しさを定める絶対的な基準はなく、20年間に渡り絵画教室の講師を行った経験を、生徒一人ひとりが感じる美しさや自己の表現に活かすことができます。運営してきた絵画教室の受講生は殆ど描画経験のない大人ですが、みな物の見方や捉え方は違っており、それは学生たちも同様です。生徒一人ひとりの目線に立ち、創造性・想像力を高め、個個の表現意欲と成長を支えたいと考えています。




30.紙粘土の試作@美術部



2025-12-14

28.興味の起源

 

前世?

以前目にした前世占いの本で、私の前世はドイツの職人と書いてあった。確かにドイツが好きだし、たまたま見たテレビのドイツ語講座に瞬時に惹かれたし、何かしら否定できないものがあるかもしれない。

好きな映画の一つ『Before Sunrise』で、Ethan Hawke演じる主人公のJesseが輪廻転生について語っている。


我々全員が、何らかの形で人類の始まりに起源を持つのであれば、今の僕たちの魂はどこから来たんだろう?って思うんだ。 
だって1万年前の地球の人口は100万人、100万年前の人口はわずか5万人だった。今、地球の人口は50億から60億の間。これは、100万年の間に、魂が1万分の1に分裂したことを意味するんだ。
僕たちは、一個の魂のほんの一部に過ぎないことになる。だから、みんな散漫した訳の分からない気分になるのかな?僕がこんなわけの分からないことを考えることも、理に適っているんだろうけどね。



輪廻転生の考えでは、人だけでなく命あるものは何度も繰返し転生するという。

けれど、初めてこの宇宙に命が誕生してから現在に至るまで、生物の個体数は増え続け、人口の数だけで80億、全動物の数は数えられない。

もしも魂が何度も何度も転生を繰り返すのであれば、Jesseの言うように、一つの魂が分裂し続けているのだろうか。あるいは、この世に対して未練のある魂たちが新しく誕生した動物に乗移り(いわゆる転生?)、満足できなければ他の個体へ移動し、人生二度目三度目という人ができるのか。

結局のところ、輪廻転生が事実かどうか誰にも分からない。肯定も否定もできない。



血は受け継がれ、ゲノムは変化する

ただ事実として、私たち人はみんな、先祖代々だけでなく、先祖が食べた動物の血液や細胞のゲノムを受け継いでいる。

あるいは、感染したであろう細菌のゲノムを、少なからず身体の中に受け継いでいる。

その結果、一つの魂を持つ人として、生きている。

また一方で、細胞が分裂する際に、ゲノムは変化することが近年の研究で分かっている。生まれた時のゲノムを同じまま一生持ち続けるわけでない。

例えば、音楽家の家系に音楽家が誕生するのは、生まれながらにして、音楽を操るためのシナプスをより太くより多く持っているかもしれないけれど、栄養がきちんと摂取され生物的にも音楽家的にも良い環境が整っていなければ、そのシナプスは途切れる可能性もある。

私が高校生になり初めての部活を楽しんでいると、懇談の時に京大卒の数学科の担任に言われた。「部活は1日何時間ですか?せいぜい2時間程度でしょ?勉強は毎日6時間あります。部活に時間を取るより勉強に時間を使った方が、より将来のために役立つと思いませんか?」

生徒の言葉や気持ちを無視し、数字でしか考えない担任に嫌悪を抱き、数学までもが嫌いになった。高二になると担任も数学の先生も変わり授業を聞くようになったけれど、大学受験を終えると数学から解放され、脳の数学分野の思考回路のネジが外れたように数字を受け付けなくなった。

自分が言ったことは往々にして忘れる。
人から言われ忘れられないことは多々ある。

他人の発する言葉によって、またそれをネガティブに受け止め続ける自分の考え方や生活習慣によって、加えて過去に生きた生物や先祖の生命を部分的に継承していることによって、興奮性や抑制性の神経伝達物質が放たれ、ゲノムが変化し突然何かしらの興味を持ったり失ったり、色んなことができたりできなかったりするのだと思う。

ドイツ人職人の魂がドイツ語学習の手助けをしてくれれば嬉しいけれど、私の人生を乗っ取られているとは思いたくない。



→29.美術部指導員



2025-11-30

27.脳のシワを増やす習慣

 

学校で勉強する理由

『子供の脳は柔軟性があり、そのためシナプスは増えやすく、ネットワークが広がりやすい』ことが解っている。

だから、柔軟な脳を持つ子供の時に、学校へ行き勉強する。

「なんで学校へ行かなあかんの?」
「なんで勉強せなあかんの?」
という子どもたちに知ってもらいたい。

学校で勉強する理由は、脳全体に、バランス良くシワを増やすため。

国語・算数・理科・社会・音楽・美術・保健体育・家庭科・技術・英語を勉強する時に使う脳の分野は、それぞれ違う。だから、脳全体のネットワークが広げられるようになっている。

「本来、学校教育は上手く構成されている」と、高校の保健の時間に教わった。

各教科を学ぶ時に色んなことを感じ、考え、行動し、脳の各分野に刺激を与え、脳の各分野でシナプスが増大するように、教育指導は考えられている。

だから授業で、自分自身で考えずに暗記することばかりに脳が使われると、ネットワークに偏りができ、健全な脳の育成ができなってしまう。

良い点を取ることだけを目的にしてしまうと、折角のヒトとしての脳の機能が、上手く活かせなくなってしまう。



思考の偏りによる認知症

そして大人になり、脳の使い方や使う部分が同じまま思考や行動パターンが習慣化され、新たにネットワークを広げることが、もはや簡単にはできなくなる。

同じ分野の脳を使い続けネットワークの偏りが生じると、認知症になる可能性がある。


出典:公益財団法人認知症予防財団


認知症や鬱症状は、遺伝によって起きるのではない。

医師や教師が認知症になる話を聞くと、きっと同じことだけに専念していて、脳の使い方が悪かったんだろうなぁと思う。



脳内のカタチは人それぞれ

ストレスやネガティブな刺激を受け続けると、つながっていたシナプスが途切れ、脳のシワが減り、脳が萎縮し、認知症や鬱などの症状が起きることになる。

脳の神経細胞やシナプスの数や大きさ、脳内の形は、人それぞれ異なっている。シナプスのつながりやすさもおそらく先天的に異なっている。

同じ刺激を受けたとしても、その刺激に対する反応や捉え方は個個に違い、
敏感や鈍感という言葉で表わされるヒトの五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の衰えは、一概に年齢だけが要因ともえない。

年齢に関係なく色んなことに興味を抱き、刺激を肯定的に感じ、シナプスが増えると、感覚(Sense/センス)が鍛えられ鋭くなる。逆に、シナプスが減ると、感覚は衰え鈍くなる。

例えば、音楽家は微妙な音の違いを聴き分けることができ、美術家は微妙な色の違いを見分けることができるが、興味が失せ、訓練をやめると感覚は鈍くなる。そもそも興味のない物事においては、年齢に関係なく感覚を磨くことは簡単ではない。



脳内に医者がいる

しかしながら、自分自身の意思や思考だけが脳のネットワークを作っているのではない。

生命維持を司る脳の一つの機能に「ミクログリア」という細胞があり、ミクログリアはニューロンの修復や、死んでしまったニューロンを除去する機能を持ち、脳内の医者と言われている。



出典:自然科学研究機構



一方で、ミクログリアは正常なニューロンを殺してしまうことがあるらしい。また、慢性疲労を感じる際の痛みは、ミクログリアが原因になっている可能性があることも示されている。


自然科学研究機構
https://www.jst.go.jp

京都大学
https://www.kyoto-u.ac.jp

日経サイエンス
https://www.nikkei-science.com



自分自身のミクログリアがニューロンの修復を行ないシナプスをつなげようとする。それにも関わらず、自らが思考や行動を改めることなくストレスを感じ続ける。

結果、ミクログリアは愛想をつかして攻撃するのかもしれない。あるいは、シナプスが途切れた方が一個の生物として良いとみなし攻撃するのかもしれない。

その理由までは解明されていない。人も動物、自然の一部。それが自然な生命のメカニズムであることは間違いない。

いずれにしても、同じネットワークを使い過ぎると、あるいは身体を酷使し過ぎると、脳の各分野のバランスが崩れ、脳の健康は損なわれる。

そもそも、細胞やシナプスという物質は、色んな栄養素でできている。

思考だけでなく、紀元前に医学の父ヒポクラテスが重要視した「環境、食事、生活習慣」が、まさに人体機能を司る脳に大きな影響を及ぼしていることは明らかだと思う。



28.興味の起源



2025-11-28

26.記憶のメカニズム


脳はスゴイ

脳は左脳と右脳に分かれ、大脳(前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉)、間脳(視床脳、視床下部)、脳幹(中脳、橋、延髄)、小脳がある。

脳が刺激を受けると、神経細胞(ニューロン)からアドレナリンやドーパミンといった神経伝達物質が放出され、それを受け取るためニューロンが突起を伸ばし、ニューロンとニューロンがつながる。

情報伝達物質は100種類以上あり、刺激によって、放出される情報伝達物質や働く脳の分野は異なる。

1000億個あると言われるニューロンひとつひとつに、1万個ほどのつながり「シナプス」ができている。




シナプスのつながりによってできるネットワーク、それが長期的な記憶の正体


神経細胞同士のミクロなつながり/京都大学総合研究推進本部
https://note.com

記憶のメカニズム/WIRED
https://wired.jp

脳はこうして記憶する/日本学術会議
https://www.scj.go.jp



脳は自分で変えられる

例えば、自転車に乗れるように何度も繰返し練習する時の脳内では、乗れるように思考する大脳が働く。そして、身体を動かすため小脳が働く。

手足や眼球を使うための各分野のニューロンが数多くつながり、自転車に乗れるようになる。

健常である限り、一度乗れるようになった自転車の乗り方を忘れることはなく、あるいは、ひらがなやカタカナや簡単な漢字を忘れることはない。

繰返し行なう習慣や心地良い刺激によって、シナプスはつながり、ネットワークは広がる。

ネットワークが広がるため、知識や知恵や出来る事が増えていく。

逆に、不慣れな外国語や機械操作などは、覚えにくくまた忘れやすい。脳が心地良さを感じず、神経伝達物質が分泌されにくければ、シナプスはつながりにくい。

また過度のストレスによって抑制性の情報伝達物質が放出され、シナプスは途切れ、ネットワークの広がりは減る。

シナプスのつながりは、いわゆる脳のシワ。健康な脳には、左右バランス良くシワが多い。

快楽や苦痛などの刺激をどう感じるか、どう捉えるかは、人それぞれ違う。脳のシワは、自分次第で増やすことも減らすこともできるということになる。




“科学的事実”は更新される
かつて、脳の神経細胞(ニューロン)は死滅すると新たに補われることはないと考えられていた。

しかし近年の研究によって、大脳下部に位置する海馬で、年齢に関係なくニューロンが新生されることが解っている。海馬は短期的な記憶の保持を司る

海馬とは/Brain Suite
https://brainsuite.jp



一夜漬けで試験勉強の暗記をしても、いずれ忘れる。一度や二度の絵画レッスンやスポーツや楽器の練習で上手くなることはない。

海馬で保持された短期的な記憶は、何度も何度も繰返し刺激を与え、ニューロン同士がつながり、シナプスができ、脳の各分野で長期的に保たれる。

ところが一度や二度の練習で簡単にできる人もいる。

体質的に生まれ持った情報伝達物質の量や質、先天的なシナプスのつながりやすさが、おそらく才能やセンスと言われるものかもしれない。

けれど、同じ人間だから、シナプスをつなげる要素は誰にでもある。私にもある。この脳のしくみを知ってから、シナプスを増やすための栄養や休養や運動の必要性を感じ、物事の捉え方を変えることにした。





2025-10-23

25.「できない」が「できる」になった理由|性格の変化


子供の頃は人前に立つのが恥ずかしく、授業中、先生に当てられ発言するのも本当にイヤだった。休憩時間もずっと自分の席に座ったまま、本を読み、読む本がなければうつ伏せて、休憩時間が終わるのを待っていた。当時はまだ絵を描くのが特別好きなわけでもなかった。

今は教室の前に立ち、数十人の前でもレッスンを行なえる。お喋りではないが初対面の人とも会話を楽しむ。けれど団体行動が好きでなく人と群がるのも苦手で、他人と同じであるのがイヤな気質、負けん気のある気質は、子供の時から変わっていない。

たとえば幼稚園で担任の先生の絵を描いた時のこと。洋服の色を、顔と同じ肌の色で塗った。ベージュの服を先生が着ていたかどうかは覚えていない。一色でまとめた方がきれいだと思い、いわばコーディネイトのつもりで、顔の色に合わせて服を塗ったような記憶が朧気ながらある。しかし同じ組の男の子からは「裸や!」とからかわれ、服の形を描いているのに何でハダカ?と思い、その男子を相手にしなかった。

また小学1年生か2年生の理科の時間に、固形石鹸を使う実験をした時のこと。板チョコのように、縦2個×横3個の凹凸でできた小さな石鹸を、2個分だけカッターナイフで切り取るよう指示があった。縦2個を切り取れば簡単に切り取れる。けれど私は何を思ったか、横3個の内の2個を切り取った。それを見た先生は、なぜそんな切り方をするのかと苛立ち怒った。切り方までは指図されていない。別に怒らんでもいいやん、と心の中で睨み返した。

生まれ持った気質は、大人になっても変わらないと言われる。けれど間違いなく、性格は、変化する。

「気質」は生まれつきのもの
「性格」は経験や環境によって形成されるもの


個人を形成する大きな要因の一つは、祖先から受け継いだ遺伝。けれど、環境は、要因としてより大きな割合を占める。

例えば、両親が日本人でも生まれた時からアメリカで生活していた場合、そして日本語を話さず英語だけを使い、現地のルールや文化に従い生活していれば、日本で生活していた人生とは全く異なることが考えられる。

それはアメリカに限らず、国によって文化や常識は大きく異なり、日本国内でも習慣が違う

場所が違えば食事は違い、体質は変わる。
車社会か否かで、日々の運動量が変わる。
文化によって思考パターンや行動パターンは変わり、生活習慣は変わる。
現地で子孫を残せば、子孫はそのDNA配列を受け継ぐけれど、個個のDNA配列は、また変化する。

祖先から受け継いだ遺伝による体質や気質だけでなく、環境によって、個人個人の生活習慣は変わり、「性格」は変化しえる。


マザーテレサ

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。



経験上、そのとおりだと思う。


※マザーテレサは「性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから」と最後に言っている。それには納得できず省いた。「運命」の言葉の意味は、“人間の意志をこえて人間に幸福や不幸を与える力”のこと。自分の意志がおよばず結局は定めに従うしかない、のはマザーテレサ自身の論理に矛盾する。「性格に気をつけなさい。それが人生になるから。」だったら納得できる。

一般的に、DNAや遺伝子が個個を形成する大きな要因と捉えられ、「性格は変わらない」、「絵の才能は生まれつきだから、自分には絵は描けない」と思っている人が多いかもしれない。

そんな思い込みを覆したい。絵が楽しく描けるようになってもらいたい。私もできないことができるようになりたい。可能性の要素・本質は自分自身にあるはず。それを確かめるために脳のしくみについて引き続き調べた。



→ 26.記憶の正体


2025-10-22

24.「できない」が「できる」になった理由|たぶん細胞の変化


ヒトを形成するのは細胞核にあるDNAだけではない。細胞の表面、ミトコンドリアにあるゲノム、脳の神経細胞、ホルモンなど、数多くの要素がある。細胞の名称は同じでも、人それぞれつくりは異なっている。


▼細胞の表面
細胞の表面には、「MHC」という糖タンパク質がある。ヒトのMHCである「HLA (Human Leukocyte Antigen/ヒト白血球抗原)」は最も個人差があると言われている。

▼ミトコンドリア
ミトコンドリアも、ミトコンドリア独自のゲノムを持ち、個人差が示されている。広く研究されている細胞核のDNAとは異なり、ミトコンドリアのゲノムは変異が生じやすいという特徴がある。未だ解っていないことは数多くある。

▼ホルモン
ホルモンの種類は、男性ホルモンや女性ホルモンなど、100種類以上あると言われる。ホルモンの種類や量は、人の体質や気質に大きく作用する。

脳の神経細胞
脳の神経細胞(ニューロン)は、脳全体で860億個ある、あるいはおよそ1000億から1500億個あるとも言われているがはっきりとはわかっていない。ニューロンとニューロンをつなぐシナプスは、人によって数も太さも違う。シナプスが太く多いほど脳のネットワークが強固に広がることになり、情報処理の質や量が変わる。


細胞の成長や機能は、先天的に異なる。けれど栄養や運動や休養の質や量によって、細胞の成長や機能は変化する。医学の父ヒポクラテスが生きた紀元前の時代から、「環境」、「食事」、「生活習慣」が個人を形成する大きな要因になることが分かっている。

しかしながら科学を以てしても多くのことは未だ解っていない、ことも分かっている。

解っていない、ということがわかっているなら、自分の細胞がどうとかこうとか、自分に才能があるとかないとか、できるとかできないとか、科学や常識によって決めつけることはない。決めつけられたくもない。



→ 25.「できない」が「できる」になる理由(4) 性格の変化


2025-10-21

23.「できない」が「できる」になった理由|たぶんDNAの変化


細胞が分裂する時、DNAはまるでコピー機で複製されるように、全く同じままコピーされ増え続けるものだと、学生の時からずっと思っていた。

それは、大きな間違いだ。

ヒトの身体には30兆個以上の細胞がある。それらの細胞核に、23対(46本)の染色体があり、染色体は全長約1.8mのデオキシリボ核酸(DNA)でできている。そのDNAの配列は加齢に伴い変化するまた細胞分裂の際に変異することが近年の研究で明らかになっている。

DNAの配列変化/東京大学
https://www.u-tokyo.ac.jp

DNAの変異東洋大学
https://www.toyo.ac.jp



ヒトのDNAに配列されている情報は、ヒトゲノムと言われる。よく考えてみれば、ヒトゲノムは何万年もの時を経て、ヒトがヒトになる遙か以前の生物から脈々と受け継がれ、変化し続け形成されている。

現代の自然環境や生活環境は、石器時代と比べても、100年前、10年前と比べても、変わっている。生物は生存するために、そして、より生命力のある子孫を残そうとして環境に順応し、その経験がDNAに刻まれ、その結果として現代のヒトゲノム、今の私たちのDNA配列はできている。

遺伝子は、DNA全体のたった1〜2%の部分を成すタンパク質。よほど強い情報でない限り、遺伝子の配列も変化する。(遺伝子以外の部分、非コードDNAと呼ばれる部分は、細胞の機能を制御するのに不可欠であることが明らかになっている。2000年から2003年まで行われた、ヒトのDNAを解読をするヒトゲノム計画では、非コードDNAは無意味なゴミとみなされていた。)

DNAはデオキシリボ核酸という物質であり、グリシン、アスパラギン酸、葉酸、グルタミンなどでできている。DNAは肝臓でつくられる

つまり、
食事を怠り栄養素が不足すると、これらの成分ができないことになり、細胞分裂が健全に行なわれないことになる。


核酸とは/オーソモレキュラー栄養医学研究所
https://www.orthomolecular.jp


だから一人ひとりの人生の途中においても、ゲノムの配列は変化し得る。退化もすれば進化もする。

ヒトはコピーロボットではない。ヒトは機械ではない。ゲノムは設計図ではない。DNA配列が、ゲノムが、生物をつくっているわけでもなければ、遺伝子が自分の人生を決めているわけでもない。DNAの配列は、生物個々の継承の痕跡、祖先からの贈り物。その良いところを継承し、時代遅れのものは変わり続ける。

私は自分のDNA配列や遺伝情報を一度も調べたことがなく、多くの人は自身のDNA配列を知らない。自分のDNAについて知らないのであれば、自分の可能性も自分の考え方次第、と捉えることができる。


ゲノムは設計図でもレシピでもない/ JT生命誌研究館 
https://www.brh.co.jp




→ 24.「できない」が「できる」になる理由(3) 細胞の変化


2025-10-20

22.「できない」が「できる」になった理由| 好奇心と疑問


色鉛筆で絵を描き始めてから、好奇心が強くなった。描きたい物をじっくり観察すると、同時に疑問がいろいろ湧いてくる。

これ、どうやって描こ?
何色で塗ろ?
背景は何を描こ?

そして普段から身の回りの物を、よりじっくり観察するようになる。そしてまた疑問が湧き、解決するために、あれこれ塗り試す。

作りたい色がなかなかできず、重ね塗りしすぎてどうにもならず、一からやり直そうと、練り消しゴムでギュッと押さえて消そうとしたら、まさに求めていた色が出来たことがあった。

「失敗は成功の基」、「為せば成る成さねばならない何事も」、をわかりやすく体験した。

しかしながら学生の頃や、社会人になり営業職に就いた頃は、好奇心よりも警戒心が強かった。

石橋を何度も叩き、自分にできるかできないかを考えていた。したいかしたくないかではなく、しなければいけないかどうかで、決めていたと思う。

営業職で何度も浮き沈みし3年経ったある時じっくり考えた。自分が本当にしたいわけではない仕事で、こんなに何度も何度も悩まないといけないのか?私が本当にしたいことは何?

高校生の時、同級生の女の子が将来警察官になると言っていたことを思い出した。その時私は、警察官かぁ、かっこいいなぁ、でもあんな大変な仕事は私には無理、と思った。でも無理だと思っていた営業の仕事がなんとか3年続いた。やればできた。だったら、警察官の仕事もやればできるんじゃないか。

決心を固め、仕事を辞め、警察官採用の勉強を始めた。

今思えば前向きな退職ではなく、嫌な仕事を辞める「逃げ」でしかなかった。結果的に、警察官になることはできず、色鉛筆アートを知ることができた。

そして警戒心よりも、好奇心が強くなった。

したくなくて、しなくて良いことは、しなくていい。他人の権利を奪わない限り何をしても良い。はずだけれど、自分がしたいことを優先するというのは、実際のところ簡単ではない。世間体や他人の気持ちを考え、自分の願望を後回しにする。

そんな時を経て今は好奇心が強く行動力が全開になり、よりじっくり自然を観察していると、生物や自然が好きだったこともあり、絵の描き方以外にも、いろいろ疑問を抱くことになった。

初めて体験レッスンをした時、同じ色鉛筆や画材を使い、私が描いた見本の下絵をなぞり、ピーマンの絵を描いてもらったら、完成した参加者みなさんのピーマンの色はそれぞれ違い、一人ひとり物の見方や色の見え方が違うことに気づかされた。そして思った。

同じ手順で絵を描いているのに、なぜこんなにも違うピーマンができるのか?
人それぞれの色彩感覚の違いが生じる脳のしくみはどうなっているのか?
そもそも私も、絵を描くことに全く興味がなかったのに、なぜこんなにも絵に惹かれるようになったのか?
できなかったことが、できるようになる脳のしくみはどうなっているのか?

身体や脳のしくみについてネットで調べ、脳科学の本を読んでいると、なるほど、可能性の本質は、つまりはできるとできないの違いはそういうことで起きるのかと思った。



→ 23.「できない」が「できる」になる理由(2) DNAの変化


2025-10-18

21.好奇心


色鉛筆で絵を描き始め、2002年11月に初めて個展を行なった時のこと。

絵の額装をした額縁店で、貸しギャラリーの情報誌をもらい、個展が開ける大阪市内のギャラリーを探し回った。交通の便が良く、手頃なギャラリーが、南森町で見つかった。

近くには、毎日聴いていたなラジオ局FM802がある。朝の番組を担当していたDJヒロ寺平さんに絵を見てもらいたい!と思い、案内状を添えて手紙を書いた。

個展が始まり2日目。ヒロさんが会場に来てくれた時の様子は、今でも鮮明に、記憶に焼き付いている。

会場の奥で旧友と話をしていた時、ギャラリーに訪れた背の高いヒロさんは、入り口を照らす日光を背に受け、顔は見えず、黒いシルエットになっていた。

まさか、ヒロさんじゃないよなぁ、、と思い、声をかける勇気が出ず、一枚一枚、私の絵を見てくれるその姿を目で追った。ヒロさんだとはっきり分かっても、すぐには足が前に出ず、声をかけることができなかった。私はその時、本当に腰が抜けていたんじゃないかと思う。絵を見終わったヒロさんに、やっとのことで自分の名を名乗り、お礼を伝えた。ひと言ふた言、ヒロさんが質問をしてくれたことは覚えている。けれど、何を聞かれたか、何を答えたかは緊張しすぎて覚えていない。

その2日後、スタッフの方が会場に来られ、翌朝金曜日の放送で、個展の紹介をしてくださると言う。おかげ様で放送を聞いたリスナーの方々が、本当に沢山見に来てくれた。盛況ぶりに、ギャラリーのオーナーも驚いていた。

あれから23年が過ぎ、DJを引退されたヒロさんが、再びラジオに復帰しているのをインターネットで知った。10月13日(祝)に放送される番組「ヒロTのポストカードミュージック」で、心に残る一曲とその思い出を書いたハガキを募集している。

早速ハガキを書いた。覚えてくれているとは思うけれど念のために、赤いピーマンの絵も添えた。

当日になり、朝からパソコンで作業をしながら、以前と変わらないヒロさんの声と懐かしい名曲を聞いた。

そして「続いてのリクエスト、こちらは大阪、都島区のイロハカラーさんからいただいたリクエスト・・」、私のハガキが紹介された。私はパソコンを打っていた手を止め、息を止め、手を合わせた。こっぱずかしく、でも言葉にできないほど嬉しく、私のリクエスト曲がかかる間、ニヤケ顔でクマのように部屋中を歩き回っていた。

ホントのホントの本当に嬉しくて、また心から感謝した。


・・・


以前、初個展開催のブログを投稿した時
ヒロさんの名前を勝手に挙げるのは失礼と思い書かずにいました。


けれど今回は、思い出を放送で紹介してもらえたから、書かせてもらいました。


番組は、2025年10月20日まで聞き逃し放送で聞くことができます。

↓ ↓ ↓
NHKラジオ らじる★らじる『ヒロTのポストカードミュージック』


どの曲をどの順番でかけるか考え尽くされたヒロさんの入魂の番組を

初めから終わりまで聴いてほしい。

なんなんでしょうか、言葉にできない心地よさ。
私は既に何度も聞いています。


・・・



聞き逃してしまった第一回目から、この後もずっと残っていればいいのに。リクエストが読まれたところは音声アプリで保存済み。送ってもらったサイン入りハガキも、その音声も一生の宝物。



22.「できない」が「できる」になる理由(1) 好奇心と疑問


2025-08-19

20.アートレッスン再開


日本へ帰国後、コロナ禍になりステイホームが始まった。

折角の時間を使い、以前から疑問に思っていた、脳のしくみについて調べた。

絵を描くために日々観察している自然界のと、科学界で観測され認識されるの、捉え方がまるで別物のように感じたことがあり、また、かつては描けなかった絵が描けるようになった、自分の脳のしくみが知りたかった。

本を読み、ネットを検索し、納得のいく自分なりの答えが見つかった。その考えを整理するために、またブログを書きたいと思っている。

以前は、自分の考えを他人に話すことは好きではなかったが、気持ちが変化した。コロナ禍の時期を境に、自分自身も色んなことが変化した気がする。

科学や光や歴史に関するYouTubeを見ていると、都市伝説や神話や占いなど非科学と言われる動画が関連に出てきて、いくつかのタロット占いの動画を見てみると、どの動画でも、自分の考えをもっと発信した方が良いと言われた。

他人に指図されて何かを始めるのは好きではない。頭の中で理屈を捏ねて、1年経って、ブログを始めた。

初めは、色鉛筆好きの人の役に立てばと、技法などについて書いていたが、何だか違うと思い、やめた。

今は自分のために、スパゲッティのように絡まった頭の中を整理するために、ブログを書いている。

帰国後、新たな仕事もした。各地で行なわれる様々なイベントの会場で、販売促進やアプリ登録のサポートをするのが業務だった。都合の良い日だけ勤務ができるのも、とても有り難かった。

四国や九州や関東など、勤務日の前日から出張として一人で出向くことができ、早めに着いてレンタサイクルを借り、観光し、温泉を巡った。

野外で仕事する時の、季節ごとの寒暖の厳しさは辛かったが、色んな場所へ行けることが楽しく、行く先々で色んな人と話し、考えを聞くことができるのも良い経験だった。

コロナ禍が明け始めるまでの3年間その仕事を続けたが、なんとなく契約更新をしない方が良いと思い、イベントの仕事を終えることにした。

すると直後、ご縁があって公立学校の美術部指導員採用のお話があり、また同じ2024年春、色鉛筆アート教室を再開し、今に至っている。



→ 21.好奇心


2025-08-10

19.アート探訪 2019

 
折角ウィーンへ来たしアートに触れ、したいことをしようと思った。

ウィーンの街を歩き回り、検索して見つけた郊外の画材店を見に行った。画材店の大きな店内を見終わり帰ろうとした時、店頭に掲示板があることに気づいた。掲示板には色んなチラシが貼られてある。

再び店内に戻り、レジの店員さんにアートレッスンの貼り紙を貼らせてもらえないか尋ねると、すぐに許可してくれた。

私が絵を教えるかわりにドイツ語を教えてもらうExchange Lessonのポスターを、日本から持っていったパソコンで作り、街の印刷屋さんでプリントアウトし、再度、画材店を訪れ掲示板に貼った。




数日後、2人の女性から連絡があり、レッスンを行なうことができた。




旅もした。

今や、アプリで列車や高速バスのチケットが取れる。ミュンヘン、ニュルンベルグ、ライプツィヒ、ドレスデン、ザルツブルクを旅した。感動を共有できない寂しさはあるが、好きな所を自由に回れる一人旅は気楽だ。

ユースホステルや安いバックパッカーのホテルに泊まり、大声で話す客の声で眠れず、近くのマクドナルドへ行ってビールを飲んだ。その時、人によく言われるが、なるほど自分はフットワークが軽いのだと思った。

ドイツのマクドナルドにはビールが置いてある。ポテトをあてに飲んだビールは美味しかった。





そして各都市で、美術館や博物館を訪れた。

ウィーンでの滞在を終えて帰国する前に訪れたオクスフォードに、Ashmolean Museum of Art and Archeologyという博物館がある。

一日ではとうてい見ることができないほど数多くの美術品があるにもかかわらず、入場無料だった。





あまりに広いので、一角のベンチに座って休憩し、前を通り過ぎる人たちを見るともなく見ていた。

一枚一枚、丁寧に絵を鑑賞する人もいれば、さぁ~っと通り過ぎる人もいる。けれど、結構な確率で立ち止まる一枚の絵があった。

建物の屋根と煙突が描かれたその絵は、一部分だけが一瞬写真のように見え、「ん?」という声が聞こえてきそうな反応で、みんなが同じように顔を近づけて絵を確認する様子が面白かった。

その様子を見た後に、所せましと絵が展示されている一室に入った。






まるで写真のように描かれた絵を見て、私は“どうやって描いたんだろう?どうしたらこんな風に微妙な色の違いを作ることができたんだろう?”とマジマジと絵を鑑賞し、ベンチに座って結構長い時間そこにいた。

しかし部屋に入ってくる人の数は少なく、入って来ても殆どの人が、小さな部屋を足早に回って出て行った。

その様子を見て、“たぶん私も絵を描いてなかったら、どの絵もぜんぶ同じように見えてしまって、こんなにもじっくり観ることはなかっただろうなぁ”と思った。

でも同じ、絵を描く立場でこれらの絵を見て、“この画家達は、自分の絵をじっくり観てもらえず、こんな狭い部屋にぎゅうぎゅうに飾られ、きっと哀しいだろうなぁ”と思い、人の興味のハヤリとスタリと時代の移り変わりをしみじみ感じた。

それにしても、カラー写真の印刷技術も未だない時代に、自らの手を動かし、絵筆を操り、“どうすればこんな美しい色彩を作ることができたんだろう?”と、当時の芸術家の色覚の鋭さに感心して、館内を見て回った。



Amelia by François-Hubert Drouais


A Girl with a basket of Fruit by Lord Frederic Leighton


まだフィルムカメラで写真を撮っていた数十年前、店によって焼増の仕上がりの色に違いが出ていたことを思い出し、実感する。


そもそも、写真に現像された色は、実物の色とは違っている。
見る人それぞれの色覚によって、色の見え方は異なっている。

これらの絵に描かれた色彩も、この絵を描いた画家の眼に見えた色でしかなく、或いは画家の作りたかった色でしかなく、実際の色は、もはや誰も知ることはできない。


・・・・・・


日本へ帰国して、間もなくコロナ禍が始まった。何が起るか分からない。過去の長い歴史に浸った後に、想像もしなかった現実に戻り、近い未来を心配した。

ともあれコロナ前に帰国していて本当に良かったと思った。



→ 20.アートレッスン再開


2025-07-21

18.一時休講


何かを広めるのは難しい。どうすればいいんだろうと考える中で、ある疑問が湧いてきた。

色鉛筆が発明されたドイツでは、なぜアメリカのように絵画作品を描く画材としてそれほど認知されていないんだろう?

日本と同じ状況のドイツに行けば広まらない理由が見つかるんじゃないかという気持ちと、新しいことに挑戦したい気持ちと、日本を出たい欲望と、海外で生活したい願望と、色んなことが重なって、2019年の春に教室を一旦休講することを決心した。

私は、実現したいことを話すと叶わなくなる。実際、不言実行を続け、夢が一つずつ叶ってきた。願ってもいなかったことが実現したりもした。

20代の頃、職場の同僚に「言霊ってあるから、したいことは言った方が良い」と言われ、「40才までにトライアスロンに出たい」と打ち明けたことがあった。当時私は秘かにクロールの練習をしていた。しかし話したことで熱を失い、結局その夢は数年で消え失せた。

ドイツのワーキングホリデービザを取った時と同様に、誰にも話さず、副職の仕事量を増やして働きまくり、1年前から着々とドイツ行きを準備した。

本当はドイツへ行きたかったが、アーティストビザを取ることは困難と知り、ビザ無しで6ヵ月滞在できるオーストリアに行くことにした。

ドイツと陸が繋がっているから何とかなる。あれこれ考えることに疲れすぎ、具体的に何をするかを考えることなく、2018年の年末、2019年4月で教室を一旦休講したいことを受講生の方々や文化センターへ伝えた。

2019年6月にウィーンでの生活を始め、数ヶ月経った頃、テレビ番組『プレバト』でリアルに描く色鉛筆のコーナーが始まり、色鉛筆が人気になっていると聞き知った。

色鉛筆で写真のようにリアルな絵が描けることが、広く知られることになった。願っていたとおりに、色鉛筆が注目され始めた。

思ってもいなかった方法で願いが叶い、複雑な思いが何周も何周もまわり、その時の気持ちは今はあまり覚えていない。



→ 19.アート探訪 2019


2025-07-13

17.モチベーションの変化

 
2004年に始めた色鉛筆アート教室は、ありがたいことに大阪以外でも開催できるようになっていった。

私のホームページを見て講座開講の依頼をいただいたり、インターネットで検索し講座を開講したい旨をこちらからも申し出た。

展覧会の開催を告知をしてもらえるように、各新聞社へ手紙を添え案内状を送ったことが、新たに講座を開くきっかけにもなった。

一人でも多くの人に、色鉛筆の可能性を知ってもらいたい。

自分が今できることを考え、行動することは、とても楽しかった。新たなことを始めることは、私にとっては問題なかった。

それよりも、継続することの方が難しいと思った。でも何かを広めるためには辛抱強く続けるしかないと思い、展覧会を毎年行い、会場に机を置き、来場者に体験レッスンを受けてもらえるようにした。

しかしながら、教室や展覧会を継続するためのモチベーションは徐々に変化していった。

「絵心がないから絵を描くことができない」と言う声を何度も聞き、“Fine Art (=絵画作品)を描く画材として、色鉛筆が広く認知されること”よりも、“もっと多くの人に絵を描く楽しさを知ってもらいたい”、“色鉛筆がきっかけとなって、自分自身の可能性をもっと感じてもらいたい”という願いの方が強くなっていった。

そして同時に、教室を開講し展覧会を開催し始めてから約10年経っても、毎年展覧会々場で「これ色鉛筆で描いた絵?」と同じ質問が繰り返されることに倦怠感を感じ、新たなことに挑戦したいという好奇心が湧いてきた。

そんな私の感情がいろいろと相まって、“好奇心や、逆に一歩が踏み出せない警戒心を人が抱く時、つまり、人が感情を抱き、思考し、そして行動する時、あるいは行動しない時、一般的に人の脳はどのように働き、人生が決まっていくのか”に、興味を感じ始めた。

思い返すと画集『アメリカの色鉛筆アート』に惹かれ、色鉛筆に興味を持ち、絵を描き始めてから、そもそも“興味”はどこからやってくるのか?と、ずっと疑問を持っている。

私は疑問を持つと解決せずにはいられない。ある時、興味の起源には脳が関係しているはずだと思い、書店で見かけた脳科学の本を読んだが、“興味がどこから来るか”は脳科学でも未解明だと書かれていた。

しかしその脳科学の本が読みやすく、脳のしくみについて知っていくと、同じ画材を使い、同じピーマンの絵を見て描いても、受講生それぞれ違う絵ができることはまったく不思議ではない、と納得した。また、絵を描き始めてから私の音痴が解消されたことが腑に落ちた。

人の脳は、一般的に思われているより、自分が思っているより、はるかに精密に機能しているらしい。年齢を問わず、より精密に機能させることもできるらしい。

今まで、何かを広めるためには辛抱強く続けるしかないと思っていたが、目的を果たすための方法として、“~しかない”ことは決してないはずだ、苦手なSNS発信を嫌々使わなくても他に方法はあるはずだ、と思った。



→ 18.一時休講


2025-07-05

16.「大人の塗り絵ってどう?」


色鉛筆アート教室を始めて10年ほど経った頃、『大人の塗り絵』が認知症予防になるとして人気になった。

当時、"手を動かし色を塗ることは、そりゃ脳にとって良いだろう”という漠然とした認識しかなかった。

しかし毎年行なう展覧会で、「大人の塗り絵を買ったけど、見本みたいに上手く塗れないから1ぺージでやめた」という声を何度となく聞き、単に、色を塗ることが脳に良いわけではないと思うようになっていた。

そして教室を始めて15年経った頃から脳の働きに深く興味を持ち、自分自身の経験も鑑みると、色を塗るだけでなく色の濃淡(グラデーション)を作ることが脳を活性化させるのだと思うようになった。

『大人の塗り絵』は、子どもの塗り絵とは違う。名画や、立体的な花の絵や、遠近感のある風景画が見本になった『大人の塗り絵』を塗るには、色を徐々にぼかしグラデーションを作る必要がある。

つまりは、色鉛筆を手に持ち、ひと筆ひと筆、自分自身の手の動きをコントロールし、色をぼかし、そしてグラデーションができると、平面的な画用紙の上に立体的な物体が浮き出ているように見え、それが出来ると嬉しくなり、脳が喜ぶことになり、脳が活性化する。

そう思った。

徐々に濃淡を変化させるのは、簡単そうで簡単ではない。練習が必要だ。でも、できるようになりたいと思い、正しい方法で練習すればグラデーションはできるようになる。

何事にも、得手、不得手がある。でもグラデーションができるかどうかは、才能の有無で決まるのではない。自分を信じて努力するか否かだ。



☆徐々に濃淡が変化するグラデーション☆

©atelier ilohacolour


©atelier ilohacolour

  (球体っぽく見える)




★濃淡に境目があるグラデーション★

©atelier ilohacolour

 ©atelier ilohacolour


  (ダーツのように見える)





試しに大人の塗り絵をしてみたが、私自身は、描かれた枠の中を塗るだけでは満足いかず、それほど楽しさを感じられなかった。

折角アートレッスンを習いにくるのだから、一から自分で描けるようになった方が良いのではとは思うけれど、でも自分が満足できるなら、色塗りだけを楽しんでも構わないと私は思っている。

絵の具とは異なり、色鉛筆は手軽に使える。

だから初心者の人にこそ、まずは色鉛筆を使って絵を塗る楽しさを知ってもらいたい、そして好きな絵をいろいろ描いてもらいたい、そうすれば描けなかった絵が徐々に描けるようになり、色鉛筆がきっかけになって、自分自身の可能性を感じてもらえるのではないか、結果的に色鉛筆の価値が見直されるのではないか、という思いが強くなっていった。





2025-06-15

15.余談|人の心理


毎年展覧会を行なっていると、絵が描けるかどうかを聞いていないのに、「私は絵が描けない、絵心がない」と言う人がいる。

それは展覧会においてだけでなく、日常的に何かの話の流れで絵の教室をしていることを伝えると、同じように「私は絵が描けない、絵心がない」と自分ができないことをアピールしてくる。

そういった人達は、もしも誰かが「小説を書いています」と言ったら同じように「私は文才がない、小説は書けない」と言うだろか?私なら「へぇ、どんな小説を書いているんですか?」と尋ねる。初めての会話で、自分が小説が書るかどうかなんて主張することはない。

でももしかしたら、絵であっても小説であっても、何であっても、自分ができないことをまず相手に伝えないと気が済まない心理というものがあるのだろうか。あるいは絵を描くことに関してだけ、自分を卑下する心理が働くのだろうか。

思い返せば、私は画集『アメリカの色鉛筆アート』を見て絵を描き始めたものの、上手く描けずに「私には才能がない」と思って一度絵を描くことを諦めた。

でも諦めきれずに私は再び描き始めた。才能の有無を気にするよりも、なによりも、どうしても絵が描けるようになりたかった。

「絵が描けない、絵心がない」と言って描き始めない人は、とどのつまり本当は、絵を描くことに別に興味がないんだと思うようになった。

けれど聞かれてもいないのに、「絵が描けない、絵心がない」と言う人の心理が分からず、その真意に興味を持った。

私はずっと、人の心理に興味がある。心理学で統計的に考えられる理論ではなく、本当の、個人個人の心理の違いに興味がある。

教室で手が止まっている受講生や、どんな絵が描きたいかを上手く言い表せない受講生にアドバイスする時に、今どういう心理でいるのか、何を悩んでいるのかを考える必要があり、人の心理を読もうとする癖がついてしまった。

でも結局のところ、特殊能力がない私には、人の心理を、他人の心を読むことはできない。自分ならどう思うかと置き換え想像することしかできない。

仮に私が他人の気持ちを推し量ることができたとして、受講生なら分かってくれたと喜んでくれるかもしれないが、全員が全員私の推量を正しいと認めるとは限らない。図星だったとしても、私に心を読まれたことを不愉快に思い否定されてしまえば、もはや何が正しいかなんて分からなくなる。

言葉は、意思を伝達しあう方法として最も適した手段だと思う。けれど、完璧なものではない。

教えたいことは沢山ある。けれど言葉を使いすぎて、「受講生の絵は、先生の絵に似ますね」と言われないように気をつけねばと、そして、受講生が言葉にできない自分の感情を思いのままに表現できるように絵を教えたいと、展覧会やレッスンを重ね、色んな人の声を聞き、思っている。



→ 16.「大人の塗り絵ってどう?」


2025-06-14

14.色鉛筆アート展覧会の開催


2004年1月に開講した色鉛筆アート教室は、水曜日クラス1つ、土曜日クラス1つ、日曜日クラス2つができ、それぞれ月1回レッスンを行なった。

(以前の私のように)“色鉛筆アート”を知らない受講生さん達に対して、「色鉛筆の使い方」、「混色の仕方」、「下絵の描き方」など初心者向けの基本のカリキュラムを進めた。

一般的に、“色鉛筆は弱い筆圧で塗るもの”、“薄い色から塗り始めるもの”という固定観点がある。ぬり絵をする時は、輪郭線をはみ出さないようになぞり内側はサ~っと軽く塗る、また、色鉛筆は混色できず重ねて塗ると色が汚くなる、と思っている人が多い。

そのため新規入会時の初回レッスンでは必ず、色鉛筆は筆圧を変えて塗ることができること、そして混色できることを知ってもらうことから始めた。

またどうすれば、枠の中をムラなく同じ濃さで塗れるのか、「筆圧加減の仕方」や「色鉛筆の動かし方」などをレッスンし、カリキュラムを進めていった。

加えて、自分自身で下絵が描けるよう、キュウリやサクランボなど簡単な課題から始め、カリキュラムの課題を徐々にステップアップさせていった。

例えば、体験レッスンの課題にしているピーマンの、私が描いた絵を見本にして、全く同じ色鉛筆の色を使って描いてもらっても、出来上がる絵は受講生それぞれ全く違う。

それぞれ筆圧が違い、できあがる色の濃さが違う。形も違う。そもそも視力や色覚は違うから、見え方は人それぞれ違っている。同じ絵にならないから、レッスンをしていて楽しく面白いと思った。

そんな受講生作品を、色んな人達にも見てもらいたい、色鉛筆の魅力や可能性の幅広さをより多くの知ってもらいたいと思い、教室開講から半年ほど経った頃、次回の個展を行なう際に受講生にも絵を出展してもらおう、と決めた。

自分の絵を出すなんて・・と初めは皆渋い顔をしたが、各自好きなものを選びオリジナル作品の制作を始めてもらった。

そしてその年の11月に第二回目の個展を行い、会場の一部に受講生十数名の作品23枚を展示した。色鉛筆メーカーや画材メーカーに案内状を送り、受講生各自も友人知人に案内状を送ってくれて、多くの来場者に来てもらうことができた。たまたまギャラリーを覗いてくれる人も沢山いた。

出展した受講生の方々に「絵を描く励みになる」と喜んでもらえたことが嬉しく、『受講生グループ作品展』を毎年開催しようと思った。

ただ、ある来場者に「受講生の人の絵は、やっぱり先生の絵に似ますね」と言われてショックを感じた。色々教えたいから色々言い過ぎて、私が描く絵と似てしまうことになってしまった。折角の個性を失ってもらいたくない。教え方を見直さねばと反省した。

そして、もう一つ残念なことがあった。受講生の絵を見て「みんな元々絵を描く才能があったんですよねぇ~、私は無理」と言う来場者がいた。描いたことがあるのか尋ねると、絵心がないから絶対無理だと言う。

なぜやりもしないで、できないと決めつけてしまうんだろう。同じように「絵心がない」と言いながら描き始めた受講生は、実際に描けるようになっている。そう伝えると、「みなさん元々絵心があったんですよ~」と言う。才能の有無で片付けようとする。

絵に限らず、誰もが何かしらの可能性の種を持っていて、それを開花させるかどうかは自分の努力次第だと私は思っている。

直接的な努力だけではない。間接的な努力で花開くこともある。私は警察官になるために努力したが、その努力が足りなかった。でも何かをしようと努力したことに変わりはない。結果的に、絵を描き、教えるという自分の可能性に気づくことができた。

努力することなく「才能がない」で終わらせる人の話を聞いてとても残念に思い、また受講生や私の努力が認められず、才能という言葉で片付けられてしまうことに、やるせなさと悔しさを感じた。



→ 15.余談|人の心理


2025-06-08

13.色鉛筆アート教室の開講

 
20年前にはまだ、各企業の電話番号が記載されたNTT発行の電話帳が各家庭に無料配布されていた。その電話帳で、文化センター、カルチャーセンターを調べ、「色鉛筆アート」の講座開設ができないかと片っ端から訪問して回った。

ちなみにその頃は、個人の固定電話番号が記載された分厚い電話帳も定期的に配布されていた。NTTへ連絡すると電話番号を非掲載にできた。しかしながら、たった20年の間に(情報の共有・管理についての)“常識”というものはこうも変わってしまうものだと、時代の変化を今感じている。

カルチャーセンターを訪問して回ると、既に「色鉛筆画」の講座があると言われ、ことごとく断られた。

例えば油絵や水彩画に関しては、同じカルチャーセンターにいくつもの講座が開かれていて、何人かの講師が指導している。しかしながら当時はまだ「色鉛筆」の違いを認めてもらえず、とても悔しい思いをした。

が、であれば色鉛筆講座がないカルチャーセンターを探せばいい。範囲を広げて更にカルチャーセンターを回った。

そして、まだ色鉛筆の講座がなかった一つのカルチャーセンターで、開講できることになった。

そしてまた、カルチャーセンターとは別に個人で場所を借り、教室を開く準備もしていた。色鉛筆とは関係のない、あるイベント開催の手伝いをするため一週間訪れた町屋で、落ち着いた雰囲気の喫茶店を見つけ、レッスンができないかと思いついた。

昼時を過ぎると客がいない時間帯があるため、場所を使わせてもらえないかと店主に相談し、「色鉛筆は匂いもなくテーブルを汚す心配もない」こと、「レッスンの後にお茶とケーキを出してもらいたい」ことを伝えると、「相乗効果が得られますね」と言ってレッスンの開講を快諾してくれた。

遡ることその3ヵ月間前、二回目の個展を開催した時に「色鉛筆アート体験レッスンを受講したいか」をたずねるアンケート用紙を会場に置き、約30名ほどの希望者がいたため、早速その方々にティータイムレッスン開講のお知らせを送った。合計27名の方から参加希望の返信があった。

喫茶店での教室は平日と土日、3回に分け2004年1月に第1回目のレッスンを行ない、美味しいお茶とケーキの甲斐もあり、毎月継続して教室を行なうことが決まった。

カルチャーセンターでの講座は、約10名の受講生を迎え2004年2月に開講した。



→ 14.色鉛筆アート展覧会の開催


2025-05-31

12.アーティストになるための活動


ドイツでのワーホリ生活が半ば過ぎた頃、絵を描きながら日本へ帰国した後のことを考えた。例えば画家になれたとして、独り黙々と絵を描き続ける生活を想像してみた。それは私のしたいことじゃない、何か違うと思った。

コンスタンツでの1年間の滞在を終え、仕事について明確な考えはないまま日本へ帰国した。

ひとまず、色鉛筆の可能性の幅広さを知ってもらいたい、描いた絵を見てもらいたいと思い、個展をしようと思った。

まずは、帰国後4ヵ月間で描いた絵も含め、20枚ほどの絵を額縁店へ絵を持って行き、額装した。一枚一枚、色んな額に当てどれが試すと、額によって見た目の印象が変わり、時間をかけてじっくり選んだ。

そして、情報誌で貸しギャラリーを探し、見よう見まねで案内状を作り、色鉛筆メーカーや芸術系の雑誌社へ案内状を送った。ギャラリー近くにあるラジオ局の番組へも案内状を添えて手紙を送った。すると、番組DJさんとスタッフの方が見に来てくれ、まさかDJさんが直々に来てくれると思っておらず、腰をぬかすほど驚き、緊張し、お礼を言うのがやっとだった。

そして個展を紹介してもらったお陰で、一週間の会期中、多くの人に来てもらうことができた。

また、ある色鉛筆メーカーの方が来られ、名刺をいただくことができた。後日その方から連絡があり、取引先の百貨店で行なわれる色鉛筆画の一日体験レッスン講師の依頼をいただいた。

絵を教えた経験はなかったが即座に引き受けた。二時間のレッスンを頭の中でシミュレーションし、自分がどうやって描くことができるようになったかを整理し、描く課題や、使う色鉛筆の色や、話す内容を考えた。

当時はまだパソコンを使い慣れておらず、画用紙に描いた自作のピーマンの絵を写真に撮り、写真を紙に貼り、レッスンテキストとしてコピーを取り、準備を調えた。

午前・午後各15名の枠は満席になり、レッスン当日を迎えた。

レッスンで何を喋ったかは覚えていないが、レッスンが終わった時に、それぞれ見ず知らずの参加者同士まるで十年来の友達のようにお互いの絵を褒め合い、楽しそうに話す様子を見てとても嬉しくなり、教える仕事を続けたいと思った。

早速、講座が開けるよう資料を作成し、カルチャーセンターを訪問して回ることにした。

大学生の時には好きな英語を活かせる仕事がしたいという漠然とした考えしかなく、就職活動がうまくいかず、唯一残っていた営業職の求人票を見て、内気な性格を変えるためだと腹をくくり、結局3年間、営業の仕事をした。

その経験がこんな形で活かされることになるとは、思ってもいなかった。



→ 13.色鉛筆アート教室の開講


2025-05-25

11.余談|カメラの起源と名画

 物理学、数学、天文学のために開発され、カメラの起源になった「カメラ・オブスキュラ」という装置がある。現代は、カメラが捉えた映像は印刷用紙に現像され、簡単に見ることができている。

しかし現像技術がまだない時代は、大きな箱型のカメラ・オブスキュラの上面のガラス板に紙を置き、映し出された映像を人が描き写していた。芸術においても、その装置が使われ、写生が行なわれたと言われている。


カメラ・オブスキュラ
(出典 Wikipedia)


現代のある一人のイギリス人アーティストが、科学者と共にカメラ・オブスキュラを再現して検証し、「正方形に描かれたフェルメールの絵画は実物を観察して描いたのではなく、カメラ・オブスキュラに映された画像をなぞって描いた可能性がある」と考察している。ミケランジェロや、ダ・ビンチの作品にもその可能性があるという。

今となってはその真偽は誰にも分からないが、いずれにせよ、そのイギリス人画家には芸術を鑑賞する品格がない、下品だ、と私は思った。

フェルメールが実物を自分の眼で捉え、その形をキャンバスに再現したならば、その観察力と描写力はすごいが、たとえそうでなかったとしても、彼のその科学的検証と考察には、一体どんな意義があるのだろう。

フェルメールの作品に限らず幾多の名画には、キャンバスの上に創造された豊かな色彩の層がある。その絵を描こうと思った画家一人ひとりの想いがある。

画家がその絵を描こうとした動機や、感情や、意思や、描き方や、構図や、描いた形や、彩った色や、その作品が持つすべての要素は、時代を超え、国境を越え、何百年という時を経て、何万人という人々に影響を与え、多くの芸術作品が生み出されている。

芸術においてのみならず、後生に多大な価値を生み出している。フェルメールの作品が人々にもたらした意義は数知れない。

芸術の鑑賞の仕方は人それぞれ自由だ。他者の権利を奪わない限り、是非も善悪もない。イギリス人画家の考察も然りだ。

しかしながら機械を使った彼の科学的な考察には、表面的にしか絵画作品を捉えていない彼の鑑賞の仕方には、品がない。それはまるで、女性が美しく身を装い化粧をしている工程を覗き見るような品のなさだと、私は感じた。

もしもカメラを使って描くことに疑問を抱いたのであれば、自身は自分の眼を鍛え実物を見て写生すればいい。ただそれだけのことだ。

この世の中は様々な色や形で溢れている。光があり闇がある。人それぞれ視点が違う。視力も違う。同じ視界に入っている同じ色や形でも、認識の仕方はそれぞれ異なっている。

人は見たいものを、見たいように見る。見たいものを、見たいようにしか見ない。だから同じ物を描いても、全く同じ画材を使っても、違う絵ができる。

だからアートは楽しいのだ。芸術は素晴らしいのだ。



→ 12.アーティストになるための活動


2025-05-24

10.アートに浸る

 
1年間住むことになった家のすぐ近くにコンスタンツ大学があり、学生でなくても構内に入ることができた。図書館にあるパソコンを利用するため学生と一緒に列に並び、インターネットを使うこともできた。

今のようにスマホがなければ生活できないほどインターネットを必要としたわけではなかったが、時折、アートに関する情報をインターネットで調べたりした。

近代アートの関連サイトを見ていたある日、アートとは何か?美術とは何か?と悩んだことがあった。

ある有名お笑い芸人が番組内でコミカルなキャラクターに扮する(決して美しいとは言えない)ワンシーンを切り取り、そのまま絵画として描いた新人アーティストが、某美術雑誌で紹介されている記事をインターネットサイトで見た時、“美術”とは一体何なんだろうと思いモヤモヤした。

そして以前、テレビ番組『美の巨人』で紹介されたルノワールの言葉を思い出した。『世の中には醜いものが沢山あり過ぎる。新たに絵を描くのに、なぜわざわざ醜いものを生み出さないといけないんだ。美しく、楽しくなければ絵なんて描かない。』

悩むことなんてない。私が美しいと思う絵を描けばいい。それでいいんだ。

借りている部屋にあったラジオで、毎日地元のラジオ番組Annte Bayernを流し、音楽を聞き、独り黙々と絵を描く毎日を過ごしていると、それでもまた頭に思考が巡った。

写真を見て描くことを否定するアート記事を目にして、当時の私は気が滅入った。が、今はそれについても自分が納得できる考えに至っている。写真を見て絵を描くなら写真でいいと論じる人は、おそらく“絵を飾る”ことだけしか考えていない。

自分の感覚を研ぎ澄ませて構図を考え、眼前の光景を切り取り、自分自身の手の動きを微妙に駆使し、画用紙の上に色彩を作り出す、その自らが作り出した表現によって心踊る。そんな体験をしたことがおそらくないんだ。

絵を完成させる達成感や満足感、喜びを味わったことがきっとないんだ。“絵を描く”という行為そのものをおざなりにしているんだ。

楽しく絵を描きたい人に対して「絵は、実物を見て描かなければならない」というのは、例えば山頂からの眺めを楽しみたい人に「山頂からの景色を見たければ、麓から歩かなければならない」というのと同じだ。街から列車を乗り継ぎ、山頂へ辿り着き眺めることができる美しい景色が、日本や世界に沢山ある。

麓から山頂に通じる道は、歩くためだけにあるのではない。
絵画は、飾るためだけに描くのではない。

欲望は、人それぞれだ。
文明の利器を否定する縛りなどない。

他人の権利を奪わない限り、芸術は自由だ。

コンスタンツの自然の美に触れ、毎日絵を描いていたある時、この世の中で一番美しいものは一体何なんだろうと、ふと考えたことがあった。

まるで絵画のようだと言われるほどの自然の光景か?まるで写真みたいと言われるほど写実的に描かれた自然の風景画か?いや、人が作った絵画は、自然の美にはかなわないだろう。

たぶん、“生命の誕生”がこの世で一番美しいものだと思いが巡り、ヒトが誕生する遙か以前の、植物が光を浴び水を得て土から芽が出るさらにもっと前の、一番初めの生命誕生の起源を想像した。

そして太古の時代から生命がつながり、自分が今好きなことができている幸せに、つくづく感謝した。アートを通して、私は自分自身の存在に感謝した。



→ 11.余談|カメラの起源と名画


2025-05-10

9.ドイツの文化


2001年当時、ドイツの通貨はマルクだった。ドイツの物価は、当時の為替もあり日本よりも安く感じた。

2002年1月1日にユーロに変わった時に色んな物が便乗値上げされたようだが、それでも物価高を感じることはなかった。スーパーで売られているジャガイモやその他の野菜、ウインナーやチーズがとても安くて驚いた。それに美味しかった。

“ドイツならでは”あるいは“コンスタンツならでは”と感じることもあった。空瓶をスーパーに持参し、スーパーに設置されている機械に空瓶を入れるとお金が返金されるデポジットの習慣があった。

またスーパーでは、自分の買い物袋に商品を入れて店内を巡る客を見かけて驚いた。買い物袋に入れた商品を、レジで全て取り出し、買い物袋が空になったのをレジの店員に見せ、料金の支払いをしていた。厳格でルールに厳しいドイツのイメージを垣間見た気がした。

また20年前の日本ではまだ、買い物袋が必要か否かが尋ねられることはなかったが、ドイツでは当時から「Eine Tüte?/ 袋は?」と聞かれた。外国人の私だけにではなく全ての客に対して、文章ではなく短い言葉で"Eine Tüte?"と尋ねる習慣も、日本とは全く違うと思った。

車の通行も人通りもない赤信号でも、歩行者の人たちは青になるまできちんと待っていた。バス停でバスを待っている時、見知らぬ人が 「Guten Tag/こんにちは」と挨拶してくれることが度々あった。

コンスタンツの街にあるCDショップでは、ビニール包装がされていないCDが店頭に並び、すべてのCDが視聴できるようになっていた。客はみな、店員に確認することなく気になるCDを店内のCDプレーヤーで視聴し、聞き終わるとCDケースに入れ元の売り場へ戻していた。

人が法律を守らなければならないのは当たり前。ドイツは何だか、居心地良く感じた。

一方で、日本を出て分かる日本の良さが多々ある。どこにでもトイレがある。無料でトイレが使える。温泉がある。美味しい魚が食べられる。チップの支払いがない。ホスピタリティーに溢れている。

でも当時の私にとって、自然に囲まれたコンスタンツはまるで天国だった。目にする景色すべてを絵に描きたいと思った。実際、朝から晩まで絵を描き続け、早く翌朝にならないかと思いながら就寝するほど、絵を描くことが楽しくて仕方なかった。

部屋を借りる前に一週間泊まっていたホテルのオーナー夫妻と親しくなり、新しい家に住み慣れたことを伝えに訪れた際、「ベッドメイキングをしていた人が辞めたから、代わりに仕事をしないか」と聞かれ、アルバイトをしながら絵を描く生活が始まった。

自転車を購入し、30分かけてバイトへ向かう道中、美しい自然を目にするたび今まで感じたことのない幸福感を感じた。



→ 10.アートに浸る

2025-04-20

8.ドイツでの部屋探し

 
2001年6月コンスタンツでの滞在を始めた次の日、早速部屋探しをするため不動産会社を訪れた。

対応した女性に部屋探しをしたい旨伝えると、部屋の紹介はできないと言う。仲介手数料が高く私には支払えないようなことを言われたと思う。いくらかかるのか尋ねると「高額」とだけ答え、新聞に部屋探しの記事が載っているからそこで探すことができると言われた。

取り合ってくれないことに腹が立ったが返す言葉がなく、まるで路上生活をしないといけなくなったぐらいの不安な気分になりホテルへ戻った。新聞で探すって・・ドイツの新聞なんて見たことないのに。その日は眠れなかった。

翌朝、朝食を食べる前に急いでホテルのオーナーに新聞を見せて欲しいとお願いした。新聞のどこを見ればいいか分からないまま、朝食の準備がまだできていないレストランのテーブルで、ドイツ語辞書を片手に新聞を広げていると、一人の宿泊客がレストランへ入って来て私にドイツ語で何かを尋ねた。

英語は話せるかと聞き返すと、新聞がどこにあるかを聞かれた。コンスタンツに転勤になり部屋を探すのだと言う。何と奇遇な。私も部屋を探していると話すと、手伝ってあげると言ってくれた。何て親切な。何と幸運な。

一緒に記事を一つ一つ確かめ、私にも部屋の説明をしてくれ、そのドイツ人は良さそうな物件をチェックしていった。朝食後近くの公衆電話へ一緒に行き、チェックした自身の部屋だけでなく、私の部屋の見学予約も取ってくれた。

今まで不動産会社を通さずに部屋を探したことがない。ルームシェアもしたことがない。住むことさへできればいいという気持ちで部屋を見て回ったが、私には選択権がないことに途中で気がついた。

ドイツ語が分からない私をルームメイトとして招くかどうかは、住人が決めるのだ。

部屋探しを手伝ってくれたドイツ人は数日後に自身の部屋を見つけた。私は部屋が見つからなず不安を感じながら、ずっと電話がつながらなかった部屋の住人に電話をかけるとやっとつながり、部屋を見に行くアポを取ることができた。

翌日その家に行き、部屋を見せてもらった。玄関から続く廊下を隔て、左右に2つずつドアがあり、右側に小さなキッチンと小さなバスルーム、左側にそれぞれ鍵がかけられる2つの部屋があった。その廊下の奥に、別の住人の部屋に通じる玄関扉がある。一人の住人の居住空間を別の住人が通る、不思議な建て方のアパートだったが、何の問題もなかった。

私は自己紹介をし状況を話すと、部屋を貸すと即決してくれた。住人は近くにあるコンスタンツ大学の学生で、1年間アメリカへ行くため家具付の部屋を1年間貸したいという。

私の1年間のワーホリビザが切れる頃に、また住人が帰国するためそのまま部屋を返すことになる。ルームメイトはいない。一人で暮らせる。家具や食器すべて自由に使うことができる。本当に、何てついているんだ。

その部屋の住人にも、部屋探しを手伝ってくれたドイツ人にも、新聞を貸してくれたペンションのオーナーにも、部屋探しを拒絶した不動産会社の女性にも、全てのことに感謝した。

しかし新居の住人がアメリカへ行くまで数日あり、まだ新居に入ることができない。ホテルでの滞在を延長する旨話すと、その住人は同じアパートの別の部屋に空きがあることを教えてくれ、親切にもアパートの大家さんに事情を伝えてくれて、新居への引っ越しの日までその空き部屋に滞在することができることになった。

家具のない小さな部屋に、新居の住人が貸してくれたマットを敷いて寝た。そして数日後、家具の揃った部屋へ入居することができ、絵を描くことよりも何よりも、やっと生活が送れるという、日本では当たり前だと思っていたことができることに本当に感謝した。本当に安堵した。



→ 9.ドイツの文化


2025-04-01

7.ドイツのワーホリ

 
2001年6月12日チューリッヒに到着し、その翌日移民局へ行ってみた。スイスで住んでみたい。でもスイスにはワーホリ制度がない。スイスのビザはどういったものがあるのか、聞くだけ聞いてみようと思った。

ホテルのフロントで移民局の場所を尋ね、地図を確認しながら行った。途中で、通りすがりの人に移民局の場所を尋ねるとすぐそこだよと教えてくれ、別れ際に"Good luck!"と言ってくれた。

移民局の受付で窓口を案内され、自分の呼び出し番号まで待った。本当は、アーティストとして滞在するためのビザがないかを尋ねたかったが、恥ずかしかった。

自分の番号が呼ばれ、スイスのビザについて尋ねると「スイスに住みたければ、就職するかスイス国籍保持者と結婚するかです」と言われた。リアリティバイツ。現実は厳しい。でも私にはドイツでの滞在ビザがある。気を取り直してチューリッヒの駅へ行き、コンスタンツまでの切符を購入した。

次の日コンスタンツに到着してすぐ、駅に隣接する観光案内所で、ホテルの予約ができるか尋ねた。部屋探しに最低でも1週間かかるだろうと、コンスタンツの駅近くのホテルで空き状況を確認すると、その当日1泊だけしか空きがなかった。コンスタンツで数日間のイベントがあり、一週間空きのあるホテルはないという。焦った。が、仕方がない。

駅から離れた郊外の手頃なホテルで空きのある3日後から1週間分の予約を取り、それまでの間は他の街を見てみようと『地球の歩き方』を調べた。何となくシュトゥットガルトへ行くことにした。案内所で対応してくれた若い男性はとても親切で、シュトゥットガルトで2日間滞在するためのホテルを手配してくれた。

シュトゥットガルトは都会の街だった。自動車に興味はなかったが、折角ドイツへ来たからとベンツ博物館へ行った。車体の光沢感を描きたいと思い何枚も写真を撮ったが、未だ、それらの車の絵を描いたことはない。

コンスタンツへ戻り、予約していたホテルへ向かった。駅から約40分間のバスの道のりで目に入る景色すべてが、望んだどおりの自然溢れる風景だった。不安よりも期待が大きく膨れた。

とりあえず1週間滞在することになったホテルの部屋は、ベッドと一人用テーブルがやっと置けるほどの小さな屋根裏部屋だった。

その狭さや、テーブルにかけられたオレンジ色のチェック柄のクロスや、ベッドに横になり屋根のガラス窓から夜空を見た時の気持ちを、20年以上たった今も覚えている。とにかく嬉しかった。早く部屋を見つけて、絵を描きたいと思った。



→ 8.ドイツでの部屋探し

2025-03-26

6.色鉛筆アートに専念する幾つものきっかけ

 
初めてアメリカ色鉛筆協会展覧会に入選することになる『Home-grown Peppers』の絵を描いていた2000年当時、両親が健康維持のためNHKを見てラジオ体操をし始めた。

ラジオ体操が終わるといつもはテレビを消していたが、たまたまつけたままになっていたテレビでドイツ語講座が始まり、朝食を摂りながら何気なく見ていて、ドイツ語に興味を持った。

講師の先生の話し方がとても穏やかで聞き心地が良かった。大学で第二外国語を選ぶ際、ドイツ語は難しいと聞きフランス語を選んだためドイツ語の知識は全くなかった。

その翌週からテレビのドイツ語講座を毎週録画し、興味はさらに増し、ラジオ講座を録音して勉強した。当時はまだカセットテープの『Walkman』があった。

カセットデッキで録音したカセットテープを『Walkman』で聴き、数秒単位で何度も巻き戻すことができたため、何度も聞き返してスクリプトの書き取り練習をした。

ドイツ語は発音のルールが分かりやすい。「ei」は「アイ」と読めばいいし、「eu」は「オイ」と読めばいい。だから逆に「アイ」と聞こえれば「ei」と書けばいいと判断できた。ドイツ語の文法は難しいが、読み書きは比較的簡単と感じ、分析が好きな私はルールが明確なドイツ語にはまった。大学でドイツ語を選べば良かったと思ったが、いや、その時に知ったからこそドイツ語に興味が持てたのだとも思った。

そして、たまたま2000年にドイツのワーキングホリデー制度が始った。ドイツへ行きたい、行くしかない!と思った。ドイツ語を学びたいと思ったのではなく、ドイツに行けば描きたいものが見つかり色鉛筆アートに専念できると思った。

『Home-grown Peppers』の絵の背景を考えるためパプリカを探しても見つからず、当時の日本では未だ身近な食材ではなく、京都の錦市場でやっと見つけたパプリカが個別にナイロン包装され店頭に並んでいるのを見て、描きたいと思える“自然”が日本にはないと感じていた。その頃は美しい日本の“自然”が目に入っていなかった。

『Home-grown Peppers』の絵がアメリカ色鉛筆協会の展覧会に入選したことで、色鉛筆アートに専念したい気持ちに拍車がかかった。早速、『地球の歩き方』を購入しドイツのどこに住むを考えた。

ドイツ語講座で紹介されていたミュンヘンに興味を持ち、情報を得るため京都にあるゲーテ・インスティテュートへ行った。ミュンヘンの様子が映ったDVDを見ると、携帯電話で話しながら街を闊歩する若者がいて「これだと自分が住む場所と同じだ」と思った。再度『地球の歩き方』をペラペラめくっていると、大好きなスイスの国境近くにある、小さな街コンスタンツに惹かれた。

ワーキングホリデービザ取得が完了し、勤めていた会社を辞め、航空券と到着地チューリッヒで2泊するホテルを予約した。コンスタンツで滞在するホテルは現地に行ってから予約すればいい。1年間の住居や食費にかかる費用を調べ、準備をすべて整えた。



→ 7.ドイツのワーホリ


2025-03-18

5.色鉛筆アートの基本を知る

 
Annさんに会い、一層色鉛筆とアートに惹かれた。翌1999年、シアトルで開催された第7回CPSAアメリカ色鉛筆アート展覧会へ行き、会場で行なわれていたワークショップを見学することができた。

一人のアーティストがスライドを使い、描き方の工程を紹介していた。曰く「下絵を描いた後、色を塗る前に、グレーを使って色の濃淡を作っている、いわばデッサンをしている」と。目から鱗が落ちた。なるほど、色彩を作るよりも、まず光と陰を観察し、立体感を作ればいいのか!

小学生の図工の時間にアジサイの絵を描いたことがあった。葉の形をギザギザに描くと、「葉っぱの輪郭線を丸く描いている子がいるけれど、伊久多さんはよく観察しているね」と先生に褒められた。

モノの形状はその頃から私の目に入っていた。でも大人になっても、光によって色彩が濃くなったり薄くなったりすることを、意識しては見ていなかった。第7回CPSA展覧会を訪れ、応募して選ばれなかった私の風景画には奥行きが感じられないことに気づくことができた。

ワークショップでアーティストがお勧めしていた画用紙『Stonehenge』と、Annさんに教えてもらった色鉛筆『Prismacolor』をシアトルの画材店で購入した。

その後バンクーバーからナイアガラまで、グレイハウンドバスを乗り継ぎカナダ横断の旅をした。オタワの青空市場に並んだ彩り豊かなパプリカは、光が当たりツヤツヤに輝いていた。このパプリカの光沢感を描きたいと思った。

帰国後、会社勤めの傍ら描画に熱中した。画用紙に描いた下絵にグレーで濃淡を作ると、パプリカが立体的に浮き出ているように見えた。嬉しかった。

色を重ねると色が混ざった。立体感のあるツヤツヤのパプリカができた。本当に嬉しかった。絵を描くことがとても楽しくなった。

Annさんも、ワークショップで講義をしてたアーティストさん達も言っていた。「モチーフにする写真は参考でしかない。カメラの眼は一つ。人の眼は二つ。写実画を描きたいなら、写真に映ったものをそのまま丸写しして描いてはいけないよ。」

絵に興味を持つ前に、私は一眼レフカメラに興味を持っていた。意識して見ると、実際の色と写真に印刷された色とは違うことが分かる。それにカメラレンズに近い物ほど、形は大きく引き伸ばされて映る。片目を閉じて見るとそれが分かる。

カメラが捉えた物の形は、両目で見る現実の形とは異なっている。

絵を描き始めたことで、見ているようで見ていないことが多いことに改めて気づいた。オタワで見たパプリカの絵を時間をかけて描き、念願の展覧会入選の夢が叶った。


©atelier ilohacolour

Home-grown Peppers
【2001年第9回CPSA展覧会入選】





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2025-03-11

4.余談|色鉛筆の違い

 ©atelier ilohacolour



2025年現在まで、ずっと油性色鉛筆を愛用してきた。

大人になって始めて買った水性色鉛筆を長らく使っていなかった。UKCPSA展覧会の賞品として頂戴した色鉛筆ももったいなくて使ったことがなかった。

でも使わないのももったいない。コロナ禍になりステイホームで時間ができた時、思いたって家にあった色鉛筆と、気になって最近購入した数種類、計15種類の色鉛筆を塗り比べてみた。油性色鉛筆も水性色鉛筆もメーカーによって芯の硬さも色味も様々だけれど、できるだけ芯を尖らせて筆圧を加減すればムラなく重ね塗りができ混色が可能。



赤:油性/青:水性©atelier ilohacolour


巨峰の絵は未完成。
他の色鉛筆もいろいろ試してみたい。



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2025-03-04

3.油性色鉛筆の存在を知る

 
Susanさんから返事が届いた数ヶ月後、もう一人のアーティストから返事が届いた。

アメリカの住所に送ったAnn James Masseyさんへの手紙は現住所のあるパリへ転送され、それゆえ返事が遅くなったと詫びて丁寧に質問に答えてくれていた。

そして「もしもパリへ来ることがあればいつでも私の原画を見に来て良いよ」と書いてある。感激した。絶対に行きたいと思った。厚かましいけれど本当に原画を見に行って構わないかとAnnさんへ連絡をすると、時間を取ってくれると返信が来た。

写実的で細かな色鉛筆アート作品を描くアーティストさんたちに対して少し厳格な人柄のイメージを勝手に抱いていたが、SusanさんもAnnさんも、とても明るく朗らかで優しい人だった。

見ず知らずの私にAnnさんはいろんなことを教えてくれただけでなく、お気に入りのパリの場所を案内してくれた。Annさんと2人でパリの地下鉄に乗った時に車内の空調が効いておらず、お土産で持っていった扇子を早速取り出し前にいる乗客へも Fresh air!と言ってあおいであげていた光景を、今でも鮮明に覚えている。

アーティストそれぞれ好みの画用紙があることや、色鉛筆には油性と水性があることも、Annさんが教えてくれた。水性色鉛筆が日本で一時ブームになったことがあり水に溶ける色鉛筆の存在は知っていたが、油性の色鉛筆があることは知らなかった。

今はネットを開けばたいていの物は買える。けれど、アメリカの色鉛筆アーティストさんたちが愛用しているという油性色鉛筆を手に入れるのは当時は簡単ではなかった。いくつかの画材店を巡りやっと見つけた記憶がある。

『Prismacolor』として販売されているそのアメリカ製の油性色鉛筆は、取扱い会社変更によって以前は『Eagle』 や『Berol』の名前で売られていたらしい。Annさんがくれた何本かの色鉛筆に、それらの名前が刻まれている。

日本ではベステックという代理店が、アメリカから『Prismacolor』の芯を取り寄せ製造加工し『カリスマカラー』として販売していたが、2024年12月末で製造終了になった。カリスマカラーの品質に近い製品『DesArt COLOR/デザートカラー』が新発売になる旨、ベステックのサイトに掲載されている。

今では画材店の棚にわかりやすく分類された「油性色鉛筆」と「水性色鉛筆」が一本ずつ単品で購入できるようになっている。

『アメリカの色鉛筆アート』に載っていた写実的な絵画作品が描ける色鉛筆は、『Prismacolor』以外にも多種ある。パリへ行った5年後に、そのことを知ることとなった。



4.余談|色鉛筆の違い


2025-03-01

2.CPSA色鉛筆アート展覧会 1998

 
画集に載っていたSusan Avishaiさんの作品は、チェック柄のシャツを来た男性の絵とベルベット生地の上着を着た女性の絵で、それぞれ衣類のシワや質感にとても魅力を感じた。その旨を手紙に書いたと思う。

画集に載るほどのアーティストが返事を書いてくれることを、期待はせずに、でも待ち望んでいた。

手紙を送り数ヶ月後、Susanさんから返事が届き、憧れのスーパースターから返事が届き泣くほど嬉しかった。手紙には、「アメリカには色鉛筆協会があり毎年開催される展覧会に行けば原画を見ることができる」と書かれてあった。

あなたも絵を描くの?と質問を添え、メールアドレスを書いてくれていた。およそ十年後に日本へ来たSusanさんと会うことができた時、改めてその時の礼を伝えた。

Susanさんは衣類の素材が好きらしい。人が着ている服を見ると、この色は色鉛筆のあの色とあの色を重ねると作れる、など考えてしまうと話していた。Susanさんと会った頃は本格的に絵を描き始めていたため、Susanさんの色彩への興味に共感した。

Susanさんから返事が届いた当時、私が勤めていた会社ではオフコンからパソコンへ切り替えが始まり、取引先のシステム担当者がほぼ毎日のように来て、事務員たちに一から操作方法を指導してくれていた。

私はそれを機に家にパソコンを購入した。机に置いた大きなデスクトップのパソコンで、インターネットを接続することもできるようになった。2026年にサービスが終了するらしいADSL回線の更に前の、「ダイアルアップ回線」が当時のネット通信の主流で、電話回線を使った時間によって課金されるため、必要な時に必要なことだけを検索した。

そしてアメリカ色鉛筆協会について調べ、ワシントンD.C.で開かれる『第6回CPSA色鉛筆アート展覧会』へ行くため、アメリカ旅行を計画した。

ワシントンの空港に着き、税関で入国目的を聞かれた時、誇らしげに「色鉛筆アートの展覧会を見に行く」と答えた。税関職員は「色鉛筆の?」と少し馬鹿にしたように笑い、何日滞在するのかと聞いてきた。3日間と答えると、色鉛筆の絵を見るためにわざわざ来たの〜?とその女性は声を上げて笑い出した。ムカついた。作品を見たこともないくせにと腹が立った。

でも確かに、たかが"色鉛筆"の絵を見るためだけにこんなことをしてていいのかと現実思考が噛みついてきた。けれど、警察官になる夢がなくなり、色鉛筆アートの原画を見ることが夢になり仕事をしてお金を貯めて来ているんだ。私の夢を馬鹿にする権利は誰にもない。

展覧会の会場へ着くと、受付にいた一人の女性が"Thank you for coming."と言って出展作品のリストと次回の展覧会の出展要項を渡してくれた。

額装された作品一枚一枚をまじまじと眺めた。正面から斜めから、また正面から絵を眺め、色鉛筆の線の跡を見ると、筆圧が強く塗られていることがわかった。色鉛筆を強く塗る考えはなかった。なるほどそうか。

展示してある全ての絵を見終わり、手に持っていた出展要項を読んだ。この展覧会に選ばれたい。大きな夢ができた。



3.油性色鉛筆の存在を知る



2025-02-24

1.『アメリカの色鉛筆アート』

 



今から30年程前、3年間勤めた会社を辞め警察官採用試験を受けるために勉強をしていた。

ある日、気分転換のため書店へ行き店内をブラブラしていると、この画集が目に入った。

アートに興味はなかった。この画集を手に取った理由は覚えていないけれど、当時の様子は今でも鮮明に覚えている。

本を開くと写真のような絵が目に入り、「これ、絵?」と思った。そして「え?これ色鉛筆?」と驚いた。

タイトルには「色鉛筆」と書かれてあるが、私の知っている色鉛筆画とは違う。本をペラペラめくると、写真としか思えない絵が何枚も載っている。

本当に色鉛筆?と思い「はじめに」を読むと冒頭に「ええ、これも色鉛筆なんです」と書かれてある。読者心理が読まれていてまた驚いた。

これらの絵は100%色鉛筆で描かれてあり、CPSA国際色鉛筆展覧会に入選した『絵画』と記されている。

CPSA?
色鉛筆の協会?
これ本当に色鉛筆?
どうすればこんな写真みたいな絵が描けるの?

疑問が湧き出てページを何度もめくり、穴の空くほど絵を見続けた。本当に穴が空いてしまうんじゃないかというほど釘付けになった。

本の値段を見ると、3000円。アーティストになりたい訳ではない。私は勉強に集中しなければない。そう言い聞かせて本を置いた。

私が警察官採用試験を受けた年は採用倍率100倍だった。一次試験は受かったが二次試験で落ちた。適性検査問題の「血が恐いですか?」に「はい」を選び、「警察官以外の仕事をするなら、レーサー?それとも花屋?」に「レーサー」を選んだ。選択ミスで不合格になったかどうかは分からない。ただ二次試験に落ちると、再度試験を受けても受かることはないと知り合いの警察官OBから聞いた。

警察官になることは諦め会社勤めをし、週末に絵を描き始めた。

大人になって初めて画材店へ行ったが、どの色鉛筆を買えばいいか分からない。アメリカの人達が使ってるから、おそらく外国製の色鉛筆だろうと思い、なんとなく惹かれた色鉛筆を何色か買った。

家にあったL.L.Beanのカタログの写真をモチーフにして絵を描いてみた。が、描いたトートバックや果物の大きさのバランスが悪く、光沢感もなく、写真のような絵にはほど遠い。

なぜツヤツヤに見えないんだ?
専用の色鉛筆があるのか?画用紙が違うのか?
どうすれば写真みたいになるんだ・・?

当時はまだ今のようにインターネットは普及していない。再度書店へ行き画集を見たが、描き方は書かれていない。写真のように描ける技法書も売っていない。

色を使うのは諦め、今度は画集に載っていたモノクロ写真のような人物画を真似て描いてみようと思った。Levi'sのカタログに写ったジェームス・ディーンを描いては消し、消しては描き、画用紙がボロボロになった。

画集を見て衝撃を受け穴の空くほど見ていた時に抱いた興味は、失せた。なんとなく自分にも描けそうと思った根拠ない自信は粉砕した。色鉛筆や画用紙が違うんじゃない、自分に才能がないだけだ。そしてまったく絵を描かなくなった。

4年が経った。でも『アメリカの色鉛筆アート』を見た衝撃は、ずっと頭の片隅に残っていた。画集の巻末に掲載されたアーティストたちの連絡先がずっと気になっていた。

勇気を出し「どんな色鉛筆や画用紙を使っているか、原画を見るにはどうすればいいか」を訊いてみようと思った。画集を買って帰り、気になった絵のアーティスト3人に手紙を書いた。




→ 2.CPSA色鉛筆アート展覧会 1998