2025/08/19

20.新たな興味と仕事


日本へ帰国後、コロナ禍になり
ステイホームが始まった。


折角の時間を使い
以前から疑問に思っていた事を
色々と調べた。


絵を描くために日々観察している自然界の
科学界で観測され認識されるの、捉え方が
まるで別物のように感じたことや、


かつては描けなかった絵が描けるようになった、
自分の脳のしくみなど、


本を読み、ネットを検索し、
自分なりの答えが見つかった。


ブログを書き始めたのは
その答えを整理するため。


以前は、自分の考えを他人に話すことは
好きではなかった。


でも気持ちが変化した。


コロナ禍の時期を境に、
自分自身も色んなことが変化した気がする。


科学や光や歴史に関するYouTubeを見ていると
都市伝説や、神話や、占いなど、
非科学と言われる動画が関連に出てくる。


いくつかのタロット占いの動画を見てみると、
どの動画でも、自分の考えを
もっと発信した方が良いと言われた。


他人に指図されて
何かを始めるのは好きではない。


頭の中で理屈を捏ねて、1年経って
ブログのアカウントを作った。


そして、スパゲッティのように絡まった
頭の中を整理するために
ブログで文字化し始めた。


帰国後、新たな仕事もした。


各地で行なわれる様々なイベントの会場で
販売促進やアプリ登録のサポートをするのが
業務だった。


都合の良い日だけ勤務ができるのも
とても有り難かった。


四国や九州や関東など、勤務日の前日から
出張として一人で出向くことができ
早めに着いてレンタサイクルを借り
観光し、温泉を巡った。


野外での業務のため夏と冬は辛かったが
色んな場所へ行けることが楽しく
行く先々で色んな人と話し
考えを聞くことができるのも
良い経験だった。


コロナ禍が明け始めるまでの
3年間その仕事を続けたが、なんとなく
契約更新をしない方が良いと思い
その仕事は終えることにした。


自分の直感に従ったら、その後、
ずっとしたいと思っていた、
子供へのアート指導が実現した。



2025/08/10

19.アート探訪 2019

 
折角ウィーンへ来たし、アートに触れ
したいことをしようと思った。


ウィーンの街を歩き回り
検索して見つけた郊外の画材店を見に行った。

画材店の大きな店内を見終わり帰ろうとした時
店頭に掲示板があることに気づいた。

掲示板には、色んなチラシが貼られてある。

再び店内に戻り、レジの店員さんに
「アートレッスンの貼り紙を貼らせてもらえるか?」
を尋ねると、すぐに許可してくれた。

私が絵を教えるかわりに、ドイツ語を教えてもらう、
Exchange Lessonのポスターを、日本から持参したパソコンで作り
街の印刷屋さんでプリントアウトし、再度、
画材店を訪れ掲示板に貼った。




数日後、2人の女性から連絡があり、レッスンを行なうことができた。




旅もした。

今や、アプリで列車や高速バスのチケットが取れる。

ミュンヘン、ニュルンベルグ、ライプツィヒ、
ドレスデン、ザルツブルクを旅した。

感動を共有できない寂しさはあるが
好きな所を自由に回れる一人旅は気楽だ。

ユースホステルや安いバックパッカーのホテルに泊まり
大声で話す客の声で眠れず、近くのマクドナルドへ行って
ビールを飲んだ。

その時、他人からよく言われる、
フットワークの軽さを、我ながら感じた。



ドイツのマクドナルドにはビールが置いてある。
ポテトをあてに飲んだビールは美味しかった。

そして各都市で、美術館や博物館を訪れた。

ウィーンでの滞在を終え
帰国する前に訪れたオクスフォードに
Ashmolean Museum of Art and Archeologyという
博物館がある。

一日ではとうてい見ることができないほど
数多くの美術品があるにもかかわらず、入場無料だった。





あまりに広いので、一角のベンチに座って休憩し
前を通り過ぎる人たちを見るともなく見ていた。

一枚一枚、丁寧に絵を鑑賞する人もいれば
さぁ~っと通り過ぎる人もいる。

けれど、結構な確率で立ち止まる一枚の絵があった。

建物の屋根と煙突が描かれたその絵は
一部分だけが一瞬写真のように見える。

「ん?」という声が聞こえてきそうな反応で
みんなが同じように顔を近づけて
絵を確認する様子が面白かった。

その様子を見た後に、所せましと絵が展示されている一室に入った。






まるで写真のように描かれた絵を見て

“どうやって描いたんだろう?
どうしたらこんな風に微妙な色の違い
作ることができたんだろう?”

と、マジマジと絵を鑑賞し、
ベンチに座って、結構長い時間そこにいた。

しかし部屋に入ってくる人の数は少なく、
入って来ても殆どの人が、小さな部屋を
足早に回って出て行った。

その様子を見て思った。

“たぶん私も絵を描いてなかったら
どの絵もぜんぶ同じように見えてしまって
こんなにもじっくり観ることはなかっただろうなぁ”

でも絵を描く立場で、これらの絵を見て思ったこと。

“この画家達は、自分の絵をじっくり観てもらえず
こんな狭い部屋にぎゅうぎゅうに飾られ
きっと哀しいだろうなぁ”

私は人の興味のハヤリとスタリと
時代の移り変わりをしみじみ感じた。

それにしても、カラー写真の印刷技術も未だない時代に
自らの手を動かし、絵筆を操り

“どうすればこんな美しい色彩を
作ることができたんだろう?”と

当時の芸術家の色覚の鋭さに感心して
館内を見て回った。



Amelia by François-Hubert Drouais


A Girl with a basket of Fruit by Lord Frederic Leighton


まだフィルムカメラで写真を撮っていた数十年前
店によって焼増の仕上がりの色に違いが出ていたことを
思い出し、実感する。

そもそも、写真に現像された色は
実物の色とは違っている。

見る人それぞれの色覚によって
色の見え方は異なっている。

これらの絵に描かれた色彩も
この絵を描いた画家の眼に見えた色でしかなく
或いは画家の作りたかった色でしかなく
実際の色は、もはや誰も知ることはできない。


・・・・・・


日本へ帰国して、間もなくコロナ禍が始まった。

何が起るか分からない。

過去の長い歴史に浸った後に
想像もしなかった現実に戻り、近い未来を心配した。

ともあれコロナ前に帰国していて
本当に良かったと思った。



→ 20.アートレッスン再開


2025/07/21

18.一時休講


好奇心旺盛な私は、また別の疑問も湧いた。

“色鉛筆が発明されたドイツでは、
アメリカとは違い、なぜ絵画作品を描く画材として
それほど認知されていないんだろう?”

日本と同じ状況のドイツに行けば
広まらない理由が見つかるんじゃないか?

という気持ちと

新しいことに挑戦したい気持ちと
日本を出たい欲望と
海外で生活したい願望と
色んなことが重なって
2019年の春に教室を一旦休講することを
決心した。

私は、実現したいことを話すと
叶わなくなる。

実際、不言実行を続け、
夢が一つずつ叶ってきた。

願ってもいなかったことが
実現したりもした。

20代の頃、職場の同僚に
「言霊ってあるから、したいことは言った方が良い」
と言われ、「40才までにトライアスロンに出たい」
と打ち明けたことがあった。

当時、私は秘かにクロールの練習をしていた。
しかし話したことで熱を失い、結局
その夢は数年で消え失せた。

ドイツのワーキングホリデービザを取った時と
同様に、誰にも話さず、副職の仕事量を増やして
働きまくり、1年前から着々とドイツ行きを準備した。

本当はドイツへ行きたかったが、
アーティストビザを取ることは困難と知り、
ビザ無しで6ヵ月滞在できるオーストリアに
行くことにした。

ドイツと陸が繋がっているから何とかなる。
あれこれ考えることに疲れすぎた。

だから、具体的に何をするかを考えず
2018年の年末、2019年4月で教室を一旦休講したいことを
受講生の方々や文化センターへ伝えた。

2019年6月にウィーンでの生活を始め、
数ヶ月経った頃、テレビ番組『プレバト』で
リアルに描く色鉛筆のコーナーが始まり
色鉛筆が人気になっていると聞き知った。

色鉛筆で写真のようにリアルな絵が描けることが
広く知られることになった。

願っていたとおりに
色鉛筆が注目され始めた。

思ってもいなかった方法で願いが叶い
複雑な思いが何周も何周もまわり
その時の気持ちは今はあまり覚えていない。



→ 19.アート探訪 2019


2025/07/13

17.モチベーションの変化

 
一人でも多くの人に
色鉛筆の可能性を知ってもらいたい。

自分が今できることを考え、行動することは
とても楽しかった。

新たなことを始めることは
私にとっては問題なかった。

それよりも、継続することの方が難しいと思った。

でも何かを広めるためには、辛抱強く続けるしかない
と思い、展覧会を毎年行い、会場に机を置き、
来場者に体験レッスンを受けてもらえるようにした。

しかしながら、「絵心がないから絵を描くことができない」
と言う声を何度も聞き、教室や展覧会を継続するための
モチベーションは徐々に変化していった。

“Fine Art (=絵画作品)を描く画材として
色鉛筆が広く認知されること”

よりも

もっと多くの人に
絵を描く楽しさを知ってもらいたい”

色鉛筆がきっかけとなって
自分自身の可能性をもっと感じてもらいたい


という願いの方が、強くなっていった。

そして同時に
教室を開講し展覧会を開催し始めてから
約10年経っても、未だ展覧会の会場で
「これ色鉛筆で描いた絵?」
と同じ質問が繰り返されることに
倦怠感を感じ、新たなことに挑戦したい
という好奇心が湧いてきた。

そんな私の感情がいろいろと相まって
色々考えた。

好奇心や、逆に一歩が踏み出せない警戒心
人が抱く時、つまり、人が感情を抱き、思考し、
そして行動する時、あるいは行動しない時、
一般的に、人の脳はどのように働き
人生が決まっていくんだろう?”

思い返すと画集『アメリカの色鉛筆アート』に惹かれ
色鉛筆に興味を持ち、絵を描き始めてから、
ずっと疑問を持っていることがある。

“そもそも『興味』はどこからやってくるんだろう?”


私は疑問を持つと解決せずにはいられない。

興味の起源には脳が関係しているはずだと思い、
書店で見かけた脳科学の本を読んだが
“興味がどこから来るか”は、脳科学でも未解明と
書かれていた。

しかしその脳科学の本が読みやすく、
脳のしくみについて色々学ぶことができた。

それによって
同じ画材を使い、同じピーマンの絵を見て描いても、
受講生それぞれ違う絵ができることはまったく不思議ではない、
と納得した。

また、絵を描き始めてから
私の音痴が解消されたことが腑に落ちた。

人の脳は、一般的に思われているより、
自分が思っているより、はるかに精密に
機能しているらしい。

年齢を理由に諦める必要はない。
脳は発達する。

今まで
何かを広めるためには、辛抱強く続けるしかない
思っていたが、目的を果たすための方法として
~しかない”ことはない、
自分の脳ミソを自分に合った方法で
働かせれば色んな方法が見つかるはず、
苦手なSNS発信を嫌々使う必要はない、
と思った。



→ 18.一時休講


2025/07/05

16.「大人の塗り絵ってどう?」


色鉛筆アート教室を始めて10年ほど経った頃
『大人の塗り絵』が認知症予防になるとして
人気になった。

当時、"手を動かし色を塗ることは、そりゃ
脳にとって良いだろう”という漠然とした
認識しかなかった。

しかし毎年行なう展覧会で
「大人の塗り絵を買ったけど、
見本みたいに上手く塗れないから1ぺージでやめた」という
声を何度となく聞き、
単に、色を塗ることが脳に良いわけではない
思うようになっていた。

そして教室を始めて15年経った頃から
脳の働きに深く興味を持ち、自分自身の経験も鑑みると、
色を塗るだけでなく、色の濃淡(グラデーション)を作ることが
脳を活性化させる
のだと思うようになった。

『大人の塗り絵』は、子どもの塗り絵とは違う。

名画や、立体的な花の絵や、遠近感のある風景画が
見本になった『大人の塗り絵』を塗るには、
色を徐々にぼかしグラデーションを作る必要がある。

つまりは、色鉛筆を手に持ち、ひと筆ひと筆、
自分自身の手の動きをコントロールし、色をぼかし、
そしてグラデーションができると、平面的な画用紙の上に
立体的な物体が浮き出ているように見え、
それが出来ると嬉しくなり、脳が喜ぶことになり、
脳が活性化する。

そう思った。

徐々に濃淡を変化させるのは
簡単そうで簡単ではない。

練習が必要だ。

でも、できるようになりたいと思い
正しい方法で練習すれば、グラデーションは
できるようになる。

何事にも、得手、不得手がある。

でもグラデーションができるかどうかは、
才能の有無で決まるのではない。

自分を信じて努力するか否かだ。



☆徐々に濃淡が変化するグラデーション☆

©atelier ilohacolour


©atelier ilohacolour

  (球体っぽく見える)




★濃淡に境目があるグラデーション★

©atelier ilohacolour

 ©atelier ilohacolour


  (ダーツのように見える)





試しに大人の塗り絵をしてみたが、私自身は、
描かれた枠の中を塗るだけでは満足いかず、
それほど楽しさを感じられなかった。

折角アートレッスンを習いにくるのだから、
一から自分で描けるようになった方が良いのではとは
思うけれど、でも自分が満足できるなら、
色塗りだけを楽しんでも構わないと私は思っている。

絵の具とは異なり、色鉛筆は手軽に使える。

だから初心者の人にこそ、まずは色鉛筆を使って
絵を塗る楽しさを知ってもらいたい、そして
好きな絵をいろいろ描いてもらいたい。

そうすれば
描けなかった絵が徐々に描けるようになり、
色鉛筆がきっかけになって、自分自身の可能性を
感じてもらえる
のではないか、結果的に
色鉛筆の価値が見直されるのではないか、
という思いが強くなっていった。





2025/06/15

15.余談|人の心理


毎年展覧会を行なっていると、
絵が描けるかどうかを聞いていないのに
「私は絵が描けない、絵心がない」
と言う人がいる。

それは展覧会においてだけでなく、
美容院や、話の流れで
絵の教室をしていることを伝えると、
同じように「私は絵が描けない、絵心がない」と
自分ができないことをアピールしてくる。

そういった人達は、もしも誰かが
「小説を書いています」と言ったら同じように
「私は文才がない、小説は書けない」と言うだろか?

私なら「へぇ、どんな小説を書いているんですか?」
と尋ねる。

初めての会話で、自分が小説が書るかどうかなんて
主張することはない。

でももしかしたら、
絵であっても小説であっても、何であっても、
自分ができないことをまず相手に伝えないと
気が済まない心理というものがあるのだろうか。

あるいは絵を描くことに関してだけ、
自分を卑下する心理が働くのだろうか。

思い返せば ー
私は画集『アメリカの色鉛筆アート』を見て
絵を描き始めたものの、上手く描けずに
「私には才能がない」と思って一度
絵を描くことを諦めた。

でも諦めきれずに私は再び描き始めた。

才能の有無を気にするよりも、なによりも、
どうしても絵が描けるようになりたかった。

だから -
「絵が描けない、絵心がない」と言って
描き始めない人は、とどのつまり本当は、
絵を描くことに別に興味がないんだと
思うようになった。

けれど聞かれてもいないのに、
「絵が描けない、絵心がない」と
言う人の心理は分からず、
その真意に興味を持った。

私はずっと、人の心理に興味がある。

心理学で統計的に考えられる理論ではなく、
本当の、個人個人の心理の違いに興味がある。

教室で手が止まっている受講生や、
どんな絵が描きたいかを上手く言い表せない受講生に
アドバイスする時に、今どういう心理でいるのか、
何を悩んでいるのかを考える必要があり、
人の心理を読もうとする癖がついてしまった。

でも結局のところ、特殊能力がない私には、
人の心理を、他人の心を読むことはできない。

自分ならどう思うかと置き換え
想像することしかできない。

仮に私が他人の気持ちを
推し量ることができたとして、
受講生なら分かってくれたと
喜んでくれるかもしれない。

けれど全員が全員私の推量を
正しいと認めるとは限らない。

図星だったとしても、
私に心を読まれたことを
不愉快に思い否定されてしまえば、
もはや何が正しいかなんて分からなくなる。

言葉は、意思を伝達しあう方法として
最も適した手段だと思う。

けれど、言葉は完璧なもの
ではない。

教えたい技法は沢山ある。

けれど言葉を使いすぎて、
「受講生の絵は、先生の絵に似ますね」と
言われないように気をつけねばと、そして、
受講生が言葉にできない自分の感情を
思いのままに表現できる
ように絵を教えたいと、
展覧会やレッスンを重ね、色んな人の声を聞き、
思うようになっていった。



→ 16.「大人の塗り絵ってどう?」


2025/06/14

14.絵を描くモチベーションと絵を教えるモチベーション


一般的に、多くの人が
“色鉛筆は弱い筆圧で塗るもの”
“薄い色から塗り始めるもの”
という固定観点を子供の頃から持っている。

また“色鉛筆は混色できず重ねて塗ると色が汚くなる”
思っている人や、ぬり絵をする時は、輪郭線をはみ出さないように
なぞり内側はサ~っと軽く塗る人も多い。

だから教室では、初回レッスンの時に必ず
色鉛筆は筆圧を変えて塗ることができること、
そして混色できることを知ってもらうことから始めた。

またどうすれば、枠の中をムラなく同じ濃さで塗れるのか、
「筆圧加減の仕方」や「色鉛筆の動かし方」などをレッスンし、
カリキュラムを進めていった。

加えて、自分自身で下絵が描けるよう、
キュウリやサクランボなど簡単な課題から始め、
カリキュラムの課題を徐々にステップアップさせていった。

けれど完成する絵の出来具合はいつも様々。
例えば、体験レッスンの課題にしているピーマンの、
私が描いた絵を見本にして、全く同じ色鉛筆の色を使って
描いてもらっても、色んなピーマンの絵が出来上がる。

それぞれ筆圧が違い、
できあがる色の濃さが違う。
形も違う。

そもそも視力や色覚は違うから、見え方は人それぞれ
違っている。

同じ絵にならないから、レッスンをしていて
楽しく面白いと思った。

そんな受講生作品を、色んな人達にも見てもらいたい。
色鉛筆の魅力や可能性の幅広さをより多くの知ってもらいたい。

そう思い、教室開講から半年ほど経った頃、
次回の個展を行なう際に受講生にも
絵を出展してもらおう、と決めた。

自分の絵を出すなんて・・と初めは皆渋い顔をしたが、
各自好きなものを選びオリジナル作品の制作を始めてもらった。

そして教室を始めて1年目、私個人の第二回目の個展を行った時に
会場の一部で、受講生十数名の作品を展示した。

色鉛筆メーカーや画材メーカーに案内状を送り、
受講生各自も友人知人に案内状を送ってくれて、
多くの来場者に来てもらうことができた。
たまたまギャラリーを覗いてくれる人も沢山いた。

出展した受講生の方々に「絵を描くモチベーションになる」と
喜んでもらえたことが嬉しく、『受講生グループ作品展』を
毎年開催することにした。(→受講生作品展

ただ、ある来場者に「受講生の人の絵は、
やっぱり先生の絵に似ますね」と言われ
ショックを感じたことがあった。

色々教えたいから色々言い過ぎて、
私が描く絵と似てしまうことになってしまった。

折角の個性を失ってもらいたくない。
教え方を見直さねばと反省した。

そして、もう一つ残念なことがあった。
受講生の絵を見て「みんな元々絵を描く才能が
あったんですよねぇ~、私は無理」と言う来場者がいた。

描いたことがあるのか尋ねると、
絵心がないから絶対無理だと言う。

なぜやりもしないで、できないと
決めつけてしまうんだろう。

同じように「絵心がない」と言いながら
描き始めた受講生は、実際に描けるように
なっている。

そう伝えると、「みなさん元々絵心が
あったんですよ~」と言う。

才能の有無で片付けようとする。

絵に限らず、誰もが何かしらの可能性の種を
持っていて、それを開花させるかどうかは
自分の努力次第だと、私は思っている。

直接的な努力だけではない。
間接的な努力で花開くこともある。

私は警察官になるために努力したが、
警察官にはなれなかった。

でも努力したことに変わりはない。

結果的に、絵を描き、教えるという
自分の可能性に気づくことができた。

だから努力することなく「才能がない」で
終わらせる人の話を聞いた時
とても残念に思った。

受講生や私の努力が認められず、
才能という言葉で片付けられることに
やるせなさと悔しさを感じた。



→ 15.余談|人の心理


2025/06/08

13.色鉛筆アートレッスンの開講

 
20年前にはまだ、各企業の電話番号が記載された
NTT発行の電話帳が各家庭に無料配布されていた。


その電話帳で、文化センターやカルチャースクールを調べ
「色鉛筆アート」の講座開設ができないかと
片っ端から訪問して回った。


ちなみにその頃は、個人の固定電話番号が記載された
分厚い電話帳も定期的に配布されていた。
NTTへ連絡すると電話番号を非掲載にできた。


しかしながら、たった20年の間に
(情報の共有・管理についての)“常識”というものは
こうも変わってしまうものだと
時代の大きな変化を感じる。


カルチャーセンターを訪問して回ると、
既に「色鉛筆画」の講座があると言われ
ことごとく断られた。


油絵や水彩画に関しては、同じカルチャーセンターに
いくつもの講座が開かれていて、何人かの講師が指導している。


でも当時はまだ「色鉛筆」の講座は一つあれば十分と思われ、
「色鉛筆」の種類の違いを認めてもらえず
とても悔しい思いをした。


が、であれば色鉛筆講座がないカルチャーセンターを
探せばいい。範囲を広げて更にカルチャーセンターを回った。


そして、まだ色鉛筆の講座がなかった神戸の
カルチャーセンターでの開講が決まった。


そしてまた、カルチャーセンターとは別に
個人で場所を借り、教室を開く準備もしていた。


その頃、父が作った竹細工を展示販売しようと
町屋のスペースを一週間借り、その一角にある
落ち着いた雰囲気の喫茶店を見つけ
アートレッスンができないかと思いついた。


昼時を過ぎると客がいない時間帯があるため
場所を使わせてもらえないかと店主に相談し
「色鉛筆は匂いもなくテーブルを汚す心配もない」こと、
「レッスンの後にお茶とケーキを出してもらいたい」ことを
伝えると、「相乗効果が得られますね」と言って
レッスンの開講を快諾してくれた。


遡ることその3ヵ月間前、二回目の個展を開催した時に
「色鉛筆アート体験レッスンを受講したいか」を
たずねるアンケート用紙を会場に置き、約30名ほどの
希望者がいたため、早速その方々に
ティータイムレッスン開講のお知らせを送った。


すると合計27名の方から参加希望の返信があり
喫茶店での教室は平日と土日、3回に分け
2004年1月に第1回目のレッスンを行ない、
毎月継続して教室を行なうことになった。


そしてカルチャーセンターでの講座は、
約10名の受講生を迎え2004年2月に開講。


その後、大阪府・兵庫県・東京都など各地の
カルチャーセンターやイベントで講師の依頼を受け
色鉛筆アートレッスンを各地で行なうことに
なっていった。



→ 14.絵を習うモチベーションと教えるモチベーション


2025/05/31

12.一念発起


ドイツでのワーホリ生活が半ば過ぎた頃、
絵を描きながら日本へ帰国した後のことを考えた。

例えば画家になれたとして、独り黙々と
絵を描き続ける生活を想像してみた。
それは私のしたいことじゃない、何か違うと思った。

コンスタンツでの1年間の滞在を終え、
仕事について明確な考えはないまま日本へ帰国した。

ひとまず、色鉛筆の可能性の幅広さを
知ってもらいたい、描いた絵を見てもらいたい
と思い、個展をしようと思った。

まずは、帰国後4ヵ月間で描いた絵も含め、
20枚ほどの絵を額縁店へ絵を持って行き
額装することにした。

一枚一枚、色んな額に当てどれが試すと、
額によって見た目の印象が変わり、
時間をかけてじっくり選んだ。

そして、情報誌で貸しギャラリーを探し
見よう見まねで案内状を作り、色鉛筆メーカーや
芸術系の雑誌社へ案内状を送った。

ギャラリー近くにあるラジオ局の番組へも
案内状を添えて手紙を送った。すると、
番組DJさんとスタッフの方が見に来てくれ、
まさかDJさんが直々に来てくれると思っておらず
腰をぬかすほど驚き、お礼を言うのがやっとだった。

そして個展を紹介してもらったお陰で、
一週間の会期中、多くの人に来てもらうことができた。

また、案内状を出した色鉛筆メーカーの
方が来られ、後日その方から
取引先の百貨店で行なわれる色鉛筆画の
一日体験レッスン講師の依頼をいただいた。

絵を教えた経験はなかったが即座に引き受けた。

二時間のレッスンを頭の中でシミュレーションし
自分がどうやって描くことができるようになったかを整理し
描く課題や、使う色鉛筆の色や、話す内容を考えた。

当時はまだパソコンを使い慣れておらず
画用紙に描いた自作のピーマンの絵を写真に撮り
写真を紙に貼り、レッスンテキストを作り
準備を調えた。

午前・午後各15名の枠は満席になり
レッスン当日を迎えた。

レッスンで何を喋ったかは覚えていないが
レッスンが終わった時に、それぞれ見ず知らずの
参加者同士まるで十年来の友達のように
お互いの絵を褒め合い、楽しそうに
話す様子を見てとても嬉しくなり
教える仕事を続けたいと思った。

早速、講座が開けるよう企画書と資料を作成し
カルチャーセンターを訪問して回ることにした。

大学生の時には好きな英語を活かせる仕事がしたいという
漠然とした考えしかなく、就職活動がうまくいかず、
唯一残っていた営業職の求人票を見て
内気な性格を変えるためだと腹をくくり、
結局3年間、営業の仕事をした。

その経験がこんな形で活かされることになるとは
思ってもいなかった。



→ 13.色鉛筆アートレッスンの開講


2025/05/25

11.余談|カメラの起源と名画

 物理学、数学、天文学のために開発され、
カメラの起源になった「カメラ・オブスキュラ」という
装置がある。

現代は、カメラが捉えた映像は
印刷用紙に現像され、簡単に見ることが
できている。

しかし現像技術がまだない時代は、
大きな箱型のカメラ・オブスキュラの上面のガラス板に
紙を置き、映し出された映像を人が描き写していた。

芸術においても、その装置が使われ、
写生が行なわれたと言われている。


カメラ・オブスキュラ
(出典 Wikipedia)


現代のある一人のイギリス人アーティストが
科学者と共にカメラ・オブスキュラを再現して検証し
「正方形に描かれたフェルメールの絵画は
実物を観察して描いたのではなく、
カメラ・オブスキュラに映された画像をなぞって
描いた可能性がある」と考察している。
ミケランジェロや、ダ・ビンチの作品にも
その可能性があるという。

今となってはその真偽は誰にも分からないが、
いずれにせよ、そのイギリス人画家には
芸術を鑑賞する品格がない、下品だ、と私は思った。

フェルメールが実物を自分の眼で捉え
その形をキャンバスに再現したならば
その観察力と描写力はすごいが
たとえそうでなかったとしても
彼のその科学的検証と考察には
一体どんな意義があるのだろう。

フェルメールの作品に限らず幾多の名画には
キャンバスの上に創造された豊かな色彩の層がある。

その絵を描こうと思った画家一人ひとりの
想いがある。

画家がその絵を描こうとした動機や、感情や、意思や、
描き方や、構図や、描いた形や、彩った色や、その作品が
持つすべての要素は、時代を超え、国境を越え
何百年という時を経て、何万人という人々に影響を与え
多くの芸術作品が生み出されている。

芸術においてのみならず、後生に多大な価値を
生み出している。フェルメールの作品が
人々にもたらした意義は数知れない。

芸術の鑑賞の仕方は人それぞれ自由だ。
他者の権利を奪わない限り、是非も善悪もない。
イギリス人画家の考察も然りだ。

しかしながら機械を使った彼の科学的な考察には、
表面的にしか絵画作品を捉えていない彼の鑑賞の仕方には、
品がない。

それはまるで、女性が美しく身を装い化粧をしている工程を
覗き見るような品のなさだと、私は感じた。

もしもカメラを使って描くことに疑問を抱いたのであれば
自身は自分の眼を鍛え実物を見て写生すればいい。
ただそれだけのことだ。

この世の中は様々な色や形で溢れている。
光があり闇がある。
人それぞれ視点が違う。
視力も違う。
同じ視界に入っている同じ色や形でも
認識の仕方はそれぞれ異なっている。

人は見たいものを、見たいように見る。
見たいものを、見たいようにしか見ない。

だから同じ物を描いても、全く同じ画材を使っても
違う絵ができる。

だからアートは楽しいのだ。
芸術は素晴らしいのだ。



→ 12.一念発起


2025/05/24

10.アート生活

 
1年間住むことになった家のすぐ近くに
コンスタンツ大学があり、学生でなくても
構内に入ることができた。

図書館にあるパソコンを利用するため
学生と一緒に列に並び、インターネットを
使うこともできた。

今のようにスマホがなければ生活できないほど
インターネットを必要としたわけではなかったが
時折、アートに関する情報をインターネットで
調べたりした。

近代アートの関連サイトを見ていたある日
アートとは何か?美術とは何か?
と悩んだことがあった。

ある有名お笑い芸人が番組内でコミカルなキャラクターに
扮する(決して美しいとは言えない)ワンシーンを
そのまま切り取った絵を描いた新人アーティストが
某美術雑誌で紹介されている記事をインターネットサイトで見た時
“美術”とは一体何なんだろうと思いモヤモヤした。

そして以前、テレビ番組『美の巨人』で紹介された
ルノワールの言葉を思い出した。

『世の中には醜いものが沢山あり過ぎる。
新たに絵を描くのに、なぜわざわざ醜いものを
生み出さないといけないんだ。
美しく、楽しくなければ絵なんて
描かない。』

悩むことなんてない。
私が美しいと思う絵を描けばいい。
それでいいんだ。

借りている部屋にあったラジオで、毎日地元のラジオ番組
Annte Bayernを流し、音楽を聞き、独り黙々と
絵を描く毎日を過ごしていると
それでもまた頭に思考が巡った。

写真を見て描くことを否定するアート記事を目にして
当時の私は気が滅入った。が、今はそれについても
自分が納得できる考えに至っている。

写真を見て絵を描くなら写真でいいと論じる人は
おそらく“絵を飾る”ことだけしか考えていない。

自分の感覚を研ぎ澄ませて構図を考え、
眼前の光景を切り取り、自分自身の手の動きを
微妙に駆使し、画用紙の上に色彩を作り出す、
その自らが作り出した表現によって心踊る。
そんな体験をしたことがおそらくないんだ。

絵を完成させる達成感や満足感、
喜びを味わったことがきっとないんだ。
“絵を描く”という行為そのものを
おざなりにしているんだ。

楽しく絵を描きたい人に対して「絵は、実物を見て
描かなければならない」というのは、
例えば山頂からの眺めを楽しみたい人に
「山頂からの景色を見たければ、
麓から歩かなければならない」というのと同じだ。

街から列車を乗り継ぎ、山頂へ辿り着き眺めることができる
美しい景色が、日本や世界に沢山ある。

麓から山頂に通じる道は、歩くためだけにあるのではない。
絵画は、飾るためだけに描くのではない。

欲望は、人それぞれだ。
文明の利器を否定する縛りなどない。

他人の権利を奪わない限り、芸術は自由だ。

コンスタンツの自然の美に触れ、
毎日絵を描いていたある時、この世の中で一番美しいものは
一体何なんだろうと、ふと考えたことがあった。

まるで絵画のようだと言われるほどの
自然の光景か?

まるで写真みたいと言われるほど
写実的に描かれた自然の風景画か?

いや、人が作った絵画は、
自然の美にはかなわないだろう。

たぶん、“命の誕生”がこの世で一番美しいものだ
と思いが巡り、ヒトが誕生する遙か以前の、
植物が光を浴び水を得て土から芽が出る
さらにもっと前の、一番初めの生命誕生の起源を想像した。

そして太古の時代から生命がつながり、
自分が今好きなことができている幸せに、
つくづく感謝した。

アートを通して、私は自分自身の存在に感謝した。



→ 11.余談|カメラの起源と名画


2025/05/10

9.ドイツの文化


2001年当時、ドイツの通貨はマルクだった。
ドイツの物価は日本よりも安く感じた。

2002年1月1日にユーロに変わった時に
色んな物が便乗値上げされたようだが
それでも物価高を感じることはなかった。

スーパーで売られているジャガイモやその他の野菜、
ウインナーやチーズがとても安くて驚いた。
それに美味しかった。

“ドイツならでは”あるいは“コンスタンツならでは”と
感じることもあった。空瓶をスーパーに持参し
スーパーに設置されている機械に空瓶を入れると
お金が返金されるデポジットの習慣があった。

またスーパーでは、自分の買い物袋に商品を入れて
店内を巡る客を見かけて驚いた。
買い物袋に入れた商品を、レジで全て取り出し
買い物袋が空になったのをレジの店員に見せ
料金の支払いをしていた。

厳格でルールに厳しいドイツのイメージを
垣間見た気がした。

また20年前の日本ではまだ、買い物袋が必要か否かが
尋ねられることはなかったが、ドイツでは当時から
「Eine Tüte?/ 袋は?」と聞かれた。
外国人の私だけにではなく全ての客に対して、
文章ではなく短い言葉で"Eine Tüte?"と尋ねる習慣も
日本とは全く違うと思った。

車の通行も人通りもない赤信号でも
歩行者の人たちは青になるまできちんと待っていた。
バス停でバスを待っている時、見知らぬ人が
「Guten Tag/こんにちは」と挨拶してくれることが
度々あった。

コンスタンツの街にあるCDショップでは
ビニール包装がされていないCDが店頭に並び
すべてのCDが視聴できるようになっていた。
客はみな、店員に確認することなく気になるCDを
店内のCDプレーヤーで視聴し、聞き終わると
CDケースに入れ、元の売り場へ戻していた。

人が法律を守らなければならないのは当たり前。
ドイツは何だか、居心地良く感じた。

一方で、日本を出て分かる日本の良さが多々ある。
どこにでもトイレがある。
無料でトイレが使える。
温泉がある。
美味しい魚が食べられる。
チップの支払いがない。
ホスピタリティーに溢れている。

でも当時の私にとって、自然に囲まれたコンスタンツは
まるで天国だった。目にする景色すべてを
絵に描きたいと思った。

実際、朝から晩まで絵を描き続け
早く翌朝にならないかと思いながら就寝するほど
絵を描くことが楽しくて仕方なかった。

部屋を借りる前に一週間泊まっていたホテルの
オーナー夫妻と親しくなり、新しい家に住み慣れたことを
伝えに訪れた際、「ベッドメイキングをしていた人が辞めたから、
代わりに仕事をしないか」と聞かれ、
アルバイトをしながら絵を描く生活が始まった。

自転車を購入し、30分かけてバイトへ向かう道中
美しい自然を目にするたび、今まで感じたことのない
幸福感を感じた。



→ 10.アート生活

2025/04/20

8.ドイツでの部屋探し

 
2001年6月コンスタンツでの滞在を始めた次の日
早速、部屋探しをするため不動産会社を訪れた。

対応した女性に部屋探しをしたい旨伝えると、
部屋の紹介はできないと言う。
仲介手数料が高く、私には支払えないようなことを
言われたと思う。

いくらかかるのか尋ねると「高額」とだけ答え
新聞に部屋探しの記事が載っているから
そこで探すことができると言われた。

取り合ってくれないことに腹が立ったが返す言葉がなく
まるで路上生活をしないといけなくなったぐらいの
不安な気分になりホテルへ戻った。

新聞で探すって・・、ドイツの新聞なんて見たことないのに。
その日は眠れなかった。

翌朝、朝食を食べる前に急いでホテルのオーナーに
新聞を見せて欲しいとお願いした。
新聞のどこを見ればいいか分からないまま、
朝食の準備がまだできていないレストランのテーブルで
ドイツ語の辞書を片手に新聞を広げていると
一人の宿泊客がレストランへ入って来て
私にドイツ語で何かを尋ねた。

英語は話せるかと聞き返すと、
新聞がどこにあるかを聞かれた。
コンスタンツに転勤になり部屋を探すのだと言う。
何と奇遇な。
私も部屋を探していると話すと
手伝ってあげると言ってくれた。
何て親切な。何と幸運な。

一緒に記事を一つ一つ確かめ、私にも部屋の説明をしてくれ
そのドイツ人は良さそうな物件をチェックしていった。

朝食後近くの公衆電話へ一緒に行き
チェックした自身の部屋だけでなく
私の部屋の見学予約も取ってくれた。

今まで不動産会社を通さずに部屋を探したことがない。
ルームシェアもしたことがない。

住むことさへできればいいという気持ちで部屋を見て回ったが
私には選択権がないことに途中で気がついた。
ドイツ語が分からない私をルームメイトとして
招くかどうかは、住人が決めるのだ。

部屋探しを手伝ってくれたドイツ人は
数日後に自身の部屋を見つけた。
私は部屋が見つからなず不安を感じながら、
ずっと電話がつながらなかった部屋の住人に
電話をかけるとやっとつながり
部屋を見に行くアポを取ることができた。

翌日その家に行き、部屋を見せてもらった。

玄関から続く廊下を隔て、左右に2つずつドアがあり
右側に小さなキッチンと小さなバスルーム、
左側にそれぞれ鍵がかけられる2つの部屋があった。
その廊下の奥に、別の住人の部屋に通じる玄関扉がある。
一人の住人の居住空間を別の住人が通る、
不思議な建て方のアパートだったが、何の問題もなかった。

私は自己紹介をし状況を話すと、
部屋を貸すと即決してくれた。

住人は近くにあるコンスタンツ大学の学生で、
1年間アメリカへ留学へ行く間、家具付のまま部屋を
貸してくれるという。
家具や食器すべて自由に使うことができる。
ルームメイトはいない。一人で暮らせる。
本当に、何てついているんだ。

その部屋の住人にも、
部屋探しを手伝ってくれたドイツ人にも、
新聞を貸してくれたペンションのオーナーにも、
部屋探しを拒絶した不動産会社の女性にも、
全てのことに感謝した。

しかし新居の住人がアメリカへ行くまで数日あり、
まだ新居に入ることができない。

ホテルでの滞在を延長する旨話すと、
その住人は同じアパートの別の部屋に
空きがあることを教えてくれ、
親切にもアパートの大家さんに事情を伝えてくれて、
新居への引っ越しの日まで、その空き部屋に
滞在することができることになった。

家具のない小さな部屋に、
新居の住人が貸してくれたマットを敷いて寝た。

そして数日後ついに家具の揃った部屋へ入居することができ、
絵を描くことよりも何よりも、やっと生活が送れるという、
日本では当たり前だと思っていたことができることに
本当に感謝した。
本当に安堵した。



→ 9.ドイツの文化


2025/04/01

7.ドイツのワーホリ

 
2001年6月12日チューリッヒに到着し、
その翌日移民局へ行ってみた。

スイスで住んでみたい。
でもスイスにはワーホリ制度がない。

スイスのビザはどういったものがあるのか、
聞くだけ聞いてみようと思った。

ホテルのフロントで移民局の場所を尋ね、
地図を確認しながら行った。途中で、
通りすがりの人に移民局の場所を尋ねると
すぐそこだよと教えてくれ、別れ際に
"Good luck!"と言ってくれた。

移民局の受付で窓口を案内され、
自分の呼び出し番号まで待った。
本当は、アーティストとして滞在するための
ビザがないかを尋ねたかったが、恥ずかしかった。

自分の番号が呼ばれ、スイスのビザについて尋ねると
「スイスに住みたければ、就職するか
スイス国籍保持者と結婚するかです」と言われた。

リアリティバイツ。
現実は厳しい。

でも私にはドイツでの滞在ビザがある。
気を取り直してチューリッヒの駅へ行き、
コンスタンツまでの切符を購入した。

次の日コンスタンツに到着してすぐ、
駅に隣接する観光案内所で、ホテルの予約ができるか尋ねた。

部屋探しに最低でも1週間かかるだろうと、
コンスタンツの駅近くのホテルで空き状況を確認すると、
その当日1泊だけしか空きがなかった。

コンスタンツで数日間のイベントがあり、
一週間空きのあるホテルはないという。
焦った。が、仕方がない。

駅から離れた郊外の手頃なホテルで空きのある
3日後から1週間分の予約を取り、それまでの間は
他の街を見てみようと『地球の歩き方』を調べた。

何となくシュトゥットガルトへ行くことにした。
案内所で対応してくれた若い男性はとても親切で、
シュトゥットガルトで2日間滞在するためのホテルも
手配してくれた。

シュトゥットガルトは都会の街だった。
自動車に興味はなかったが、折角ドイツへ来たからと
ベンツ博物館へ行った。

車体の光沢感を描きたいと思い何枚も写真を撮ったが
未だ、それらの車の絵を描いたことはない。

コンスタンツへ戻り、予約していたホテルへ向かった。
駅から約40分間のバスの道のりで、目に入る景色すべてが、
望んだどおりの自然溢れる風景だった。
不安よりも期待が大きく膨れた。

とりあえず1週間滞在することになったホテルの部屋は
ベッドと一人用テーブルがやっと置けるほどの
小さな屋根裏部屋だった。

その狭さや、テーブルにかけられたオレンジ色の
チェック柄のクロスや、ベッドに横になり屋根のガラス窓から
夜空を見た時の気持ちを、20年以上たった今も覚えている。

とにかく嬉しかった。
早く部屋を見つけて、絵を描きたいと思った。



→ 8.ドイツでの部屋探し

2025/03/26

6.色鉛筆アートに専念するきっかけが重なる

 
初めてアメリカ色鉛筆協会展覧会に入選することになる
『Home-grown Peppers』の絵を描いていた2000年当時
両親が健康維持のため、NHKを見てラジオ体操をし始めた。

ラジオ体操が終わるといつもはテレビを消していたが、
たまたまつけたままになっていたテレビでドイツ語講座が始まり、
朝食を摂りながら何気なく見ていて、ドイツ語に興味を持った。

講師の先生の話し方がとても穏やかで聞き心地が良かった。
大学で第二外国語を選ぶ際、ドイツ語は難しいと聞き
フランス語を選んだため、ドイツ語の知識は全くなかった。

その翌週からテレビのドイツ語講座を毎週録画し、
興味はさらに増し、ラジオ講座を録音して勉強した。

当時はまだカセットテープの『Walkman』があった。
カセットデッキで録音したカセットテープを『Walkman』で聴き、
数秒単位で何度も巻き戻すことができたため、何度も聞き返して
スクリプトの書き取り練習をした。

ドイツ語は発音のルールが分かりやすい。
「ei」は「アイ」と読めばいいし、「eu」は「オイ」と読めばいい。
だから逆に「アイ」と聞こえれば「ei」と書けばいいと判断できた。

ドイツ語の文法は難しいが、読み書きは比較的簡単と感じ
分析が好きな私は、ルールが明確なドイツ語にはまった。
大学でドイツ語を選べば良かったと思ったが、いや、
その時に知ったからこそ、ドイツ語に興味が持てたのだとも思った。

そして、たまたま2000年にドイツのワーキングホリデー制度が始った。
ドイツへ行きたい、行くしかない!と思った。
ドイツ語を学びたいと思ったのではなく、
ドイツに行けば描きたいものが見つかり
色鉛筆アートに専念できると思った。

『Home-grown Peppers』の絵の背景を考えるため
パプリカを探しても見つからず、当時の日本では
未だ身近な食材ではなく、京都の錦市場でやっと見つけた
パプリカが個別にナイロン包装され店頭に並んでいるのを見て、
描きたいと思える“自然”が日本にはないと感じていた。

その頃は美しい日本の“自然”が目に入っていなかった。

『Home-grown Peppers』の絵が、
アメリカ色鉛筆協会の展覧会に入選したことで
色鉛筆アートに専念したい気持ちに拍車がかかった。

早速、『地球の歩き方』を購入しドイツのどこに住むを考えた。

ドイツ語講座で紹介されていたミュンヘンに興味を持ち、
情報を得るため京都にあるゲーテ・インスティテュートへ行った。

ミュンヘンの様子が映ったDVDを見ると、
携帯電話で話しながら街を闊歩する若者がいて
「これだと自分が住む場所と同じだ」と思った。

再度『地球の歩き方』をペラペラめくっていると、
大好きなスイスの国境近くにある、
小さな街コンスタンツに惹かれた。

ワーキングホリデービザ取得が完了し、
1年間の住居や食費にかかる費用を貯め
勤めていた会社を辞め、航空券と
到着地チューリッヒで2泊するホテルを予約した。

コンスタンツで部屋を探す間に滞在するホテルは
現地に行ってから予約すればいいだろう、
と思い、それ以外の準備はすべて整えた。



→ 7.ドイツのワーホリ


2025/03/18

5.色鉛筆アートの基本を知る

 
Annさんに会い、一層色鉛筆とアートに惹かれた。

翌1999年、シアトルで開催された、
第7回CPSAアメリカ色鉛筆アート展覧会へ行き、
会場で行なわれていたワークショップを見学することができた。

一人のアーティストがスライドを使い、
描き方の工程を紹介していた。

曰く「下絵を描いた後、色を塗る前に、グレーを使って
色の濃淡を作っている、いわばデッサンをしている」と。

目から鱗が落ちた。
なるほど、色彩を作るよりも、
まず光と陰を観察し、立体感を作ればいいのか!

そういえば、小学生の図工の時間に、
アジサイの葉の形をギザギザに描くと
「葉っぱの輪郭線を丸く描いている子がいるけれど、
伊久多さんはよく観察しているね」と先生に褒められたことがある。

モノ輪郭線のカタチは、その頃から私の目に入っていた。
でも大人になっても、光によって色彩が濃くなったり
薄くなったりすることを、意識しては見ていなかった。

第7回CPSA展覧会を訪れ、応募して選ばれなかった私の
風景画には、奥行きが感じられないことに気づくことができた。

ワークショップでアーティストがお勧めしていた画用紙
『Stonehenge』と、Annさんに教えてもらった色鉛筆
『Prismacolor』をシアトルの画材店で購入した。

その後、バンクーバーからナイアガラまで
グレイハウンドバスを乗り継ぎカナダ横断の旅をした。
オタワの青空市場に並んだ彩り豊かなパプリカは
光が当たりツヤツヤに輝いていた。
このパプリカの光沢感を描きたいと思った。

帰国後、会社勤めの傍ら描画に熱中した。
画用紙に描いた下絵にグレーで濃淡を作ると
パプリカが立体的に浮き出ているように見えた。
嬉しかった。

色を重ねると色が混ざった。
立体感のあるツヤツヤのパプリカができた。
本当に嬉しかった。
絵を描くことがとても楽しくなった。

Annさんも、ワークショップで講義をしていた、
アーティストさん達も言っていた。
「モチーフにする写真は参考でしかない。
カメラの眼は一つ。人の眼は二つ。
写実画を描きたいなら、写真に映ったものを
そのまま丸写しして描いてはいけないよ。」

絵に興味を持つ前に、私は一眼レフカメラに興味を持っていた。
意識して見ると、実際の色と写真に印刷された色とは
違うことが分かる。

それにカメラレンズに近い物ほど、
形は大きく引き伸ばされて映る。

カメラが捉えた物の形は
両目で見た現実の形とは、異なっている。

絵を描き始めたことで、見ているようで見ていないことが
多いことに改めて気づいた。

オタワで見たパプリカの絵を時間をかけて描き、
念願の展覧会入選の夢が叶った。


©atelier ilohacolour

Home-grown Peppers
【2001年第9回CPSA展覧会入選】





→ 6.色鉛筆アートに専念するきっかけが重なる

2025/03/11

4.余談|色鉛筆の違い

 ©atelier ilohacolour



2025年現在まで、ずっと油性色鉛筆を愛用してきた。

大人になって始めて買った水性色鉛筆を
長らく使っていなかった。

UKCPSA展覧会の賞品として頂戴した色鉛筆も
もったいなくて使ったことがなかった。

でも使わないのももったいない。

コロナ禍になりステイホームで時間ができた時
新たに購入した数種類と、家にあった数種類の、
計15種類の色鉛筆を思いたって塗り比べてみた。


油性色鉛筆も水性色鉛筆も、メーカーによって
芯の硬さも色味も様々。

けれど、できるだけ芯を尖らせて筆圧を加減すれば
ムラなく重ね塗りができ混色が可能。



赤:油性/青:水性©atelier ilohacolour


巨峰の絵は未完成。
他の色鉛筆もいろいろ試してみたい。



→ 5.色鉛筆アートの基本を知る


2025/03/04

3.油性色鉛筆の存在を知る

 
Susanさんから返事が届いた数ヶ月後
もう一人のアーティストから返事が届いた。

アメリカの住所に送ったAnn James Masseyさんへの手紙は
現住所のあるパリへ転送され
「それゆえ返事が遅くなった」と詫びて
丁寧に質問に答えてくれている。
そして「もしもパリへ来ることがあれば
いつでも私の原画を見に来て良いよ」と書いてある。

感激した。
絶対に行きたいと思った。

厚かましいけれど本当に原画を見に行って構わないかと
Annさんへ連絡をすると、時間を取ってくれると返信が来た。

写実的で細かな色鉛筆アート作品を
描くアーティストさん達たちは
少し厳格な人なのだろうと
勝手なイメージを抱いていたが
SusanさんもAnnさんも
とても明るく朗らかで優しい人だった。

見ず知らずの私にAnnさんは色んな事を
教えてくれただけでなく
お気に入りのパリの場所を案内してくれた。

Annさんと2人でパリの地下鉄に乗った時、
車内の空調が効いておらず、お土産でプレゼントした扇子を
早速取り出し、前にいる乗客へも Fresh air!と言って
あおいであげていた光景を、今でも鮮明に覚えている。

アーティストそれぞれ好みの画用紙があることや
色鉛筆には油性と水性があることも、Annさんが
教えてくれた。

水性色鉛筆が日本で一時ブームになったことがあり
水に溶ける色鉛筆の存在は知っていたが、
油性の色鉛筆があることは知らなかった。

今はネットを開けばたいていの物は買える。

けれど、アメリカの色鉛筆アーティストさんたちが
愛用しているという油性色鉛筆を手に入れるのは
当時は簡単ではなかった。
いくつかの画材店を巡りやっと見つけた記憶がある。

『Prismacolor』として販売されている、そのアメリカ製の
油性色鉛筆は、取扱い会社変更によって、以前は
『Eagle』 や『Berol』の名前で売られていたらしい。
Annさんがくれた何本かの色鉛筆に、それらの名前が刻まれている。

日本ではベステックという代理店が
アメリカから『Prismacolor』の芯を取り寄せ
製造加工し『カリスマカラー』として販売していたが、
2024年12月末で製造終了になった。

カリスマカラーの品質に近い製品
『DesArt COLOR/デザートカラー』が新発売になる旨
ベステックのサイトに掲載されている。

今では画材店の棚にわかりやすく分類された
「油性色鉛筆」と「水性色鉛筆」が
一本ずつ単品で購入できるようになっている。

『アメリカの色鉛筆アート』に載っていた
写実的な絵画作品が描ける色鉛筆は
『Prismacolor』以外にも多種ある。

パリへ行った5年後に、そのことを知ることになった。



4.余談|色鉛筆の違い


2025/03/01

2.CPSA色鉛筆アート展覧会 1998

 
画集に載っていたSusan Avishaiさんの作品は
チェック柄のシャツを来た男性の絵と
ベルベット生地の上着を着た女性の絵で、
それぞれ衣類のシワや質感にとても魅力を感じた。

その旨を手紙に書いたと思う。画集に載るほどの
アーティストが返事を書いてくれることを
期待はせずに、でも待ち望んでいた。

手紙を送り数ヶ月後、Susanさんから返事が届き、
憧れのスーパースターから返事が届き
泣くほど嬉しかった。

手紙には、「アメリカには色鉛筆協会があり、毎年開催される
展覧会に行けば原画を見ることができる」と書かれてあった。

あなたも絵を描くの?と質問を添え、
メールアドレスを書いてくれていた。

およそ十年後に日本へ来たSusanさんと
会うことができた時、改めてその時の礼を伝えた。

Susanさんは衣類の素材が好きらしい。
人が着ている服を見ると、
「色鉛筆のあの色とあの色を重ねるとこの色が作れる」
と、つい考えてしまうと話していた。

Susanさんと会った頃は本格的に絵を描き始めていたため
Susanさんの色彩への興味に共感した。


Susanさんから返事が届いた当時、私が勤めていた会社では
オフコンからパソコンへ切り替えが始まり、
取引先のシステム担当者がほぼ毎日のように来て、
事務員たちに一から操作方法を指導してくれていた。

私はそれを機に家にパソコンを購入した。
机に置いた大きなデスクトップのパソコンで、
インターネットを接続することもできるようになった。

2026年にサービスが終了するらしいADSL回線の更に前の、
「ダイアルアップ回線」が当時のネット通信の主流で、
電話回線を使った時間によって課金されるため、
必要な時に必要なことだけを検索した。

そしてアメリカ色鉛筆協会について調べ、ワシントンD.C.で開かれる
『第6回CPSA色鉛筆アート展覧会』へ行くため、
アメリカ旅行を計画した。

ワシントンの空港に着き、税関で入国目的を聞かれた時、
誇らしげに「色鉛筆アートの展覧会を見に行く」と答えた。
税関職員は「色鉛筆の?」と少し馬鹿にしたように笑い、
何日滞在するのかと聞いてきた。

3日間と答えると「色鉛筆の絵を見るためにわざわざ来たの〜?」
と、その女性は声を上げて笑い出した。

ムカついた。
作品を見たこともないくせにと腹が立った。

でも確かに、たかが"色鉛筆"の絵を見るためだけに
こんなことをしてていいのかと現実思考が噛みついてきた。

けれど、警察官になる夢がなくなり、
色鉛筆アートの原画を見ることが夢になり
仕事をしてお金を貯めて来ているんだ。
私の夢を馬鹿にする権利は誰にもない。

展覧会の会場へ着くと、受付にいた一人の女性が
"Thank you for coming."と言って
出展作品のリストと次回の展覧会の出展要項を渡してくれた。

額装された作品一枚一枚をまじまじと眺めた。
正面から斜めから、また正面から絵を眺め、
色鉛筆の線の跡を見ると、筆圧がかなり強く
塗られていることがわかった。

色鉛筆を強く塗る考えはなかった。
なるほどそうか。

展示してある全ての絵を見終わり、
手に持っていた出展要項を読んだ。

この展覧会に選ばれたい。
大きな夢ができた。



3.油性色鉛筆の存在を知る



2025/02/24

1.『アメリカの色鉛筆アート』

 



今から30年程前、3年間勤めた会社を辞め
警察官採用試験を受けるために勉強をしていた。

ある日、気分転換のため書店へ行き
店内をブラブラしていると、この画集が目に入った。

アートに興味はなかった。
この画集を手に取った理由は覚えていないけれど
当時の様子は今でも鮮明に覚えている。

本を開くと写真のような絵が目に入り
「これ、絵?」と思った。
「え?これ色鉛筆?」と驚いた。

タイトルには「色鉛筆」と書かれてある。
けれど私の知っている色鉛筆画とは違う。
本をペラペラめくると写真としか思えない絵が
何枚も載っている。

本当に色鉛筆?と思い「はじめに」を読むと
冒頭に「ええ、これも色鉛筆なんです」と書かれてある。
自分の心が読まれてる!とまた驚いた。

これらの絵は100%色鉛筆で描かれてあり
CPSA国際色鉛筆展覧会に入選した『絵画』とある。

CPSA?
色鉛筆の協会?
これ本当に色鉛筆?
どうすればこんな写真みたいな絵が描けるの?

疑問が湧き出てページを何度もめくり
穴の空くほど絵を見続けた。

本当に穴が空いてしまうんじゃないかというほど
釘付けになった。

本の値段を見ると、3000円。
アーティストになりたい訳ではない。
私は勉強に集中しなければない。
そう言い聞かせて本を置いた。

私が警察官採用試験を受けた年は採用倍率100倍だった。
一次試験は受かったが二次試験で落ちた。
適性検査問題の「血が恐いですか?」に「はい」を選び
「警察官以外の仕事をするならレーサー?それとも花屋?」に
「レーサー」を選んだ。

選択ミスで不合格になったかどうかは分からない。
ただ二次試験に落ちると再度試験を受けても受かることはない。
知り合いの警察官OBからそう聞いた。

警察官になることは諦め会社勤めをし
週末に絵を描き始めた。

大人になって初めて画材店へ行ったが
どの色鉛筆を買えばいいか分からない。

アメリカの人達が使ってるから、おそらく外国製の色鉛筆だろう
と思い、なんとなく惹かれた色鉛筆を何色か買った。

家にあったL.L.Beanのカタログの写真をモチーフにして
絵を描いてみた。
が、描いたトートバックや果物の大きさのバランスが悪く
光沢感もなく、写真のような絵にはほど遠い。

なぜツヤツヤに見えないんだ?
専用の色鉛筆があるのか?画用紙が違うのか?
どうすれば写真みたいになるんだ・・?

当時はまだ今のようにインターネットは普及していない。
再度書店へ行き画集を見たが、描き方は書かれていない。
写真のように描ける技法書も売っていない。

色を使うのは諦め、今度は画集に載っていた
モノクロ写真のような人物画を真似て描いてみようと思った。
Levi'sのカタログに写ったジェームス・ディーンを
描いては消し、消しては描き、画用紙がボロボロになった。

画集を見て衝撃を受け穴の空くほど見ていた時の興味は
失せた。なんとなく自分にも描けそう!と
思った根拠ない自信は砕け去った。

色鉛筆や画用紙が違うんじゃない、
自分に才能がないだけだ。

そしてまったく絵を描かなくなり
4年が経った。

でも『アメリカの色鉛筆アート』を見た衝撃は
ずっと頭の片隅に残っていた。

画集の巻末に掲載されたアーティストたちの連絡先が
ずっと気になっていた。

勇気を出し、
どんな色鉛筆や画用紙を使っているか、
原画を見るにはどうすればいいかを訊いてみようと思った。

画集を買って帰り、
気になった絵のアーティスト3人に手紙を書いた。




→ 2.CPSA色鉛筆アート展覧会 1998