1年間住むことになった家のすぐ近くに
コンスタンツ大学があり、学生でなくても
構内に入ることができた。
図書館にあるパソコンを利用するため
学生と一緒に列に並び、インターネットを
使うこともできた。
今のようにスマホがなければ生活できないほど
インターネットを必要としたわけではなかったが
時折、アートに関する情報をインターネットで
調べたりした。
近代アートの関連サイトを見ていたある日
アートとは何か?美術とは何か?
と悩んだことがあった。
ある有名お笑い芸人が番組内でコミカルなキャラクターに
扮する(決して美しいとは言えない)ワンシーンを
そのまま切り取った絵を描いた新人アーティストが
某美術雑誌で紹介されている記事をインターネットサイトで見た時
“美術”とは一体何なんだろうと思いモヤモヤした。
そして以前、テレビ番組『美の巨人』で紹介された
ルノワールの言葉を思い出した。
『世の中には醜いものが沢山あり過ぎる。
新たに絵を描くのに、なぜわざわざ醜いものを
生み出さないといけないんだ。
美しく、楽しくなければ絵なんて
描かない。』
悩むことなんてない。
私が美しいと思う絵を描けばいい。
それでいいんだ。
借りている部屋にあったラジオで、毎日地元のラジオ番組
Annte Bayernを流し、音楽を聞き、独り黙々と
絵を描く毎日を過ごしていると
それでもまた頭に思考が巡った。
写真を見て描くことを否定するアート記事を目にして
当時の私は気が滅入った。が、今はそれについても
自分が納得できる考えに至っている。
写真を見て絵を描くなら写真でいいと論じる人は
おそらく“絵を飾る”ことだけしか考えていない。
自分の感覚を研ぎ澄ませて構図を考え、
眼前の光景を切り取り、自分自身の手の動きを
微妙に駆使し、画用紙の上に色彩を作り出す、
その自らが作り出した表現によって心踊る。
そんな体験をしたことがおそらくないんだ。
絵を完成させる達成感や満足感、
喜びを味わったことがきっとないんだ。
“絵を描く”という行為そのものを
おざなりにしているんだ。
楽しく絵を描きたい人に対して「絵は、実物を見て
描かなければならない」というのは、
例えば山頂からの眺めを楽しみたい人に
「山頂からの景色を見たければ、
麓から歩かなければならない」というのと同じだ。
街から列車を乗り継ぎ、山頂へ辿り着き眺めることができる
美しい景色が、日本や世界に沢山ある。
麓から山頂に通じる道は、歩くためだけにあるのではない。
絵画は、飾るためだけに描くのではない。
欲望は、人それぞれだ。
文明の利器を否定する縛りなどない。
他人の権利を奪わない限り、芸術は自由だ。
コンスタンツの自然の美に触れ、
毎日絵を描いていたある時、この世の中で一番美しいものは
一体何なんだろうと、ふと考えたことがあった。
まるで絵画のようだと言われるほどの
自然の光景か?
まるで写真みたいと言われるほど
写実的に描かれた自然の風景画か?
いや、人が作った絵画は、
自然の美にはかなわないだろう。
たぶん、“命の誕生”がこの世で一番美しいものだ
と思いが巡り、ヒトが誕生する遙か以前の、
植物が光を浴び水を得て土から芽が出る
さらにもっと前の、一番初めの生命誕生の起源を想像した。
そして太古の時代から生命がつながり、
自分が今好きなことができている幸せに、
つくづく感謝した。
アートを通して、私は自分自身の存在に感謝した。