物理学、数学、天文学のために開発され、カメラの起源になった「カメラ・オブスキュラ」という装置がある。現代は、カメラが捉えた映像は印刷用紙に現像され、簡単に見ることができている。
しかし現像技術がまだない時代は、大きな箱型のカメラ・オブスキュラの上面のガラス板に紙を置き、映し出された映像を人が描き写していた。芸術においても、その装置が使われ、写生が行なわれたと言われている。
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カメラ・オブスキュラ
(出典 Wikipedia)
現代のある一人のイギリス人アーティストが、科学者と共にカメラ・オブスキュラを再現して検証し、「正方形に描かれたフェルメールの絵画は実物を観察して描いたのではなく、カメラ・オブスキュラに映された画像をなぞって描いた可能性がある」と考察している。ミケランジェロや、ダ・ビンチの作品にもその可能性があるという。
今となってはその真偽は誰にも分からないが、いずれにせよ、そのイギリス人画家には芸術を鑑賞する品格がない、下品だ、と私は思った。
フェルメールが実物を自分の眼で捉え、その形をキャンバスに再現したならば、その観察力と描写力はすごいが、たとえそうでなかったとしても、彼のその科学的検証と考察には、一体どんな意義があるのだろう。
フェルメールの作品に限らず幾多の名画には、キャンバスの上に創造された豊かな色彩の層がある。その絵を描こうと思った画家一人ひとりの想いがある。
画家がその絵を描こうとした動機や、感情や、意思や、描き方や、構図や、描いた形や、彩った色や、その作品が持つすべての要素は、時代を超え、国境を越え、何百年という時を経て、何万人という人々に影響を与え、多くの芸術作品が生み出されている。
芸術においてのみならず、後生に多大な価値を生み出している。フェルメールの作品が人々にもたらした意義は数知れない。
芸術の鑑賞の仕方は人それぞれ自由だ。他者の権利を奪わない限り、是非も善悪もない。イギリス人画家の考察も然りだ。
しかしながら機械を使った彼の科学的な考察には、表面的にしか絵画作品を捉えていない彼の鑑賞の仕方には、品がない。それはまるで、女性が美しく身を装い化粧をしている工程を覗き見るような品のなさだと、私は感じた。
もしもカメラを使って描くことに疑問を抱いたのであれば、自身は自分の眼を鍛え実物を見て写生すればいい。ただそれだけのことだ。
この世の中は様々な色や形で溢れている。光があり闇がある。人それぞれ視点が違う。視力も違う。同じ視界に入っている同じ色や形でも、認識の仕方はそれぞれ異なっている。
人は見たいものを、見たいように見る。見たいものを、見たいようにしか見ない。だから同じ物を描いても、全く同じ画材を使っても、違う絵ができる。
だからアートは楽しいのだ。芸術は素晴らしいのだ。